八十年戦争期の戦闘(海戦)

Allegorie op visserij

Attributed to Willem Eversdijck (1667-1671) In Wikimedia Commons 第二次英蘭戦争後のオランダ「漁業」の振興(寓意画)

八十年戦争(1568-1648)は、十六世紀にスペインの属領となっていたネーデルランド全十七州が、スペイン国王フェリペ二世に対して「反乱」を起こしたのが始まりです。十七州のうち北部の七州が「オランダ連邦共和国」として、最終的にその主権と独立を国際的に承認されるまでの、約八十年間におこなわれた断続的な戦争を総称して「八十年戦争」と呼びます。

戦闘ひとつひとつの数は、名前らしい名前のついているものでも200あまり、それに付随する小競り合いレベルを含めると数百にも及び、休戦期を除く80年の間ほぼ毎年、複数回の戦闘がおこなわれていた計算になります。

陸戦は別に項を設けました → 「八十年戦争期の戦闘(陸戦)

管理人が海戦を苦手としているので、個別記事は用意しないと思います。ここで主要な海戦の一覧と、概要を記載するに留めます。

八十年戦争期の海戦

休戦前の海戦の絵画が描かれた年代が、だいたい皆1620年代初頭です。これらは、オランイェ公マウリッツにまとめて納められたものといわれています。ちょうど十二年休戦条約が失効したタイミングなので、休戦前のオランダ軍の戦勝画によって、世論を鼓舞する意図もあったのかと思われます。

ゾイデル海の海戦 Zuiderzee 1573/10/11

Slag op de Zuiderzee, 6 oktober 1573 (Abraham de Verwer, 1621)

Abraham de Verwer (1621) 「ゾイデル海の戦い (1573)」 In Wikimedia Commons

同年4月のフリシンゲンの海戦に続き、数と装備に劣る「海乞食」の艦隊がスペイン艦隊に快勝した戦い。提督のコルネリス・ディルクスゾーンは元はモニケンダムの市長。この戦いで片腕を失くしています。

スペイン側の提督ブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタールは、命の保証と引き換えに捕虜となります。3年後シント=アルデホンデと捕虜交換で解放されますが、解放後もオランダ側に留まり、オランダ陸軍の将軍として戦いました。

グラヴリーヌの海戦 Spanish Armada (Gravelines) 1588/8/8

Vroom Hendrick Cornelisz Battle between England and Spain 1601

Hendrik Cornelisz. Vroom (1600-1601) In Wikimedia Commons 「アルマダとの戦い第七日 1588年8月7日」

いわゆる「アルマダの海戦」。当時無敵を誇っていたスペイン艦隊(アルマダ)をイングランドが降した海戦です。一般に当時のスペイン艦隊は「無敵艦隊」として知られますが、個人的には(といっても感情論ではなく歴史用語の用い方として)「無敵 Invincible」を付すのはあまり好ましく思えないので、書評ページや作品タイトル以外ではあまり使わないようにしています。

イングランド側の総司令官はノッティンガム公チャールズ・ハワード。有名な海賊あがりの司令官フランシス・ドレイクも参加しています。スペイン側の総司令官はメディナ・シドニア公。名提督サンタ=クルズ侯の死を受けて、海戦経験のない彼が急遽投入されたことも、スペイン側の失敗の一因とされています。

なお、フランドルでは、パルマ公ファルネーゼがスペイン艦隊との合流を期待されていましたが、ナッサウ伯ユスティヌス等オランダ軍の封鎖により失敗に終わっています。また「アルマダの海戦」全体の帰趨を決したのは、8月8日の「グラヴリーヌの海戦」なので、ここでもその表記としました。ちなみにユスティヌスはけっこう後まで「提督」と呼ばれていますが、実際海で戦っているのはこの時くらいじゃないかと思われます。

ドーバー海峡の海戦 Narrow Seas 1602/10/3-4

Vroom Hendrick Cornelisz Dutch Ships Ramming Spanish Galleys off the Flemish Coast in October 1602

Hendrik Cornelisz. Vroom (11617) 「海峡の海戦 (1602/10/3)」 In Wikimedia Commons

イングランド・オランダ合同艦隊が、フェデリコ・スピノラ提督を破った戦い。フェデリコは、アンブロジオ・スピノラ将軍の実弟で、兄が陸軍、弟が海軍を率いてスペイン軍と傭兵契約を結んだばかりでした。イングランドのマンセル卿ロバートは、スペイン艦隊の襲来を知ると罠を張って待ち構える作戦に出、見事スピノラ提督の艦隊を半壊させることに成功し、この戦いののちに副提督およびイングランド海軍出納長の地位を手にしています。

オランダの提督ヤン・ファン・カントの旗艦は『ハルフェ・マーン(半月)』。オランダ西インド会社に同名の船がありますが、おそらく別物かと思います。また、ピート・ヘインはこの頃スペイン軍に捕まってガレー船の漕ぎ手にされていましたが、スピノラ提督のこの艦隊に乗っていて、戦いの後に逃げ出したという説もあります。

スライスの海戦 Sluis 1603/5/26

Scheepsstrijd op de Zeeuwse stromen, slag bij Sluis 26 mei 1603

H. Roscam (17th century) 「スライスの海戦 (1603)」 In Wikimedia Commons

オランダ提督ヨースト・デ=モールが旗艦『黒ガレー』で、フェデリコ・スピノラ提督を破った戦い。この戦いで戦死したフェデリコは、先年のドーバー海峡で敗れて後、短期間で再度軍備を増強してきました。ピート・ヘインがリベンジのためにデ=モール提督の船に乗っていたという説もあります(しかしヘインはこの年には再度スペイン軍の捕虜になっているので、真偽はわかりません)。両軍がガレー船を用いた海戦は、八十年戦争の中でもこの戦いのみとのことです。

ジブラルタルの海戦 Gibraltar 1607/4/25

Battle of Gibraltar 1607

Cornelis Claesz van Wieringen (ca. 1621) 「ジブラルタルの海戦 (1607)」 In Wikimedia Commons

北方から東インドまで、文字どおり世界をまたにかけた冒険家、ヘームスケルク提督による奇襲。オランダ東インド会社の旗艦『アイオロス』(小型の商船とはいえ充分に武装しています)で、ジブラルタル沖のスペイン艦隊を次々爆破し、ほぼ壊滅状態にまで陥れました。上記の絵画でも、爆風で兵士が巻きあげられる様が描かれています。ただ、ヘームスケルク自身はこのときの傷がもとで戦死してしまいます。『アイオロス』はその後ヨリス・ファン・スピルベルヘンに引き継がれ、南アメリカから東インドまで活躍しました。

マタンサス湾の海戦 Baai van Matanzas 1628/9/7-8

Griffis silver fleet

Unknown 「アルハローズ湾での砂糖運搬船拿捕 (1627)」 In Wikimedia Commons

西インド会社の提督となったピート・ヘインが、ウィッテ・デ・ウィット等とともに、キューバ沖でスペインの銀艦隊を拿捕した戦い。ピート・ヘインの旗艦は『アムステルダム』。八十年戦争の中でも、後にも先にもないというほどの戦利品を得ました。銀17万ポンドをはじめとして、金、砂糖、インディゴやコチニールなどの染料、絹、真珠、ムスク、麝香、琥珀、その他宝石類など、合計1100万ギルダーという、当時の共和国半年分の戦費に匹敵する額です。この戦利品があったため、翌1629年には、大掛かりなスヘルトヘンボス攻囲戦が行われることにもなりました。

スラークの海戦 Slaak 1631/9/12

De slag op het Slaak tussen de Nederlandse en Spaanse vloten in de nacht van 12 op 13 september 1631 Rijksmuseum SK-A-454

Simon de Vlieger (1633) 「スラークの海戦 (1631)」 In Wikimedia Commons

スヘルデ川によりホラントとゼーラントの分断を目論んだ、南ネーデルランド執政イザベラが命じた戦い。ウィレム沈黙公の名にちなんだウィレムスタットが標的になったうえに、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世がスペイン側の司令官として参戦したため、オランダ側にとってもメンツに関わる戦いとなりました。「海戦」というより「河戦(?)」です。海洋用の大型船舶ではなくヨットのような小型船が用いられています。

高速船のオランダ軍はスヘルデ川でスペイン軍を追撃し、霧にまぎれて奇襲。スペイン軍はパニックになり、ヤン八世をはじめとした将校は逃げ、兵士は川に飛び込んだり、対岸に上陸して4000人以上が捕虜となりました。

ダウンズ沖の海戦 Duins 1639/10/31

Reinier Nooms - Before the Battle of the Downs - c.1639

Reinier Nooms (ca. 1639) 「ダウンズ沖海戦、トロンプの旗艦『エミリア』(1639)」 In Wikimedia Commons

マールテン・トロンプ提督が一躍有名になった戦い。このときのトロンプ提督の旗艦は『エミリア』。三十年戦争へのフランスの参戦によって、「スペイン街道」と呼ばれる陸路が使えなくなったスペイン軍は、枢機卿王子フェルナンド率いるフランドル軍への補給を、海路に頼らざるを得なくなったという背景がありました。この海戦には、援軍としてヨハン・エベルトセンも参加しています。エベルトセンの旗艦は、ゼーランド海軍らしいネーミングの『フリシンゲン』。

八十年戦争以降の海戦

サイトの趣旨からはずれる時代のため、有名な提督とその旗艦のみ紹介します。名提督とその旗艦名が紐づいている図式(「俺の艦」って感じ)は陸軍にはない男のロマン(?)ぽくてちょっと好きです。この時代の各提督の旗艦や、提督自身の名前を持つ船は、現在もオランダ海軍の旗艦名として残っているものも多いようです。

ブレーデローデ

De Vlieger, Brederode off Hellevoetsluis

Simon de Vlieger (before 1653) 「ヘレフートスライスを出航するブレーデローデ』」 In Wikimedia Commons

陸軍元帥ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルトの名を取った船。船尾にはオランイェ公の紋章が掲げられています。第一次英蘭戦争時、マールテン・トロンプ提督がテル・ヘイデの海戦(1653)で乗っていた旗艦で、トロンプはこの時に戦死。北方戦争時には、トロンプのライバル、ウィッテ・デ=ウィット提督がエーレスンドの海戦(1658)で乗っていましたが、この戦いで『ブレーデローデ』は沈没、デ=ウィットも戦死しました。

エーンドラハト

Van Minderhout Battle of Lowestoft

Hendrik van Minderhout (ca. 1665) In Wikimedia Commons 「ローストフトの海戦 『ロイヤル・チャールズ』と『エーンドラハト』(1665)」

もとは「プリンス・ウィレム」の名で建造されていたものの、ウィレム二世の急死によって第一次無州総督時代に入り、ホラント州法律顧問ヤン・デ・ウィットが、共和国の標語『Concordia』(=eendracht 団結)に船名を変更したという曰く付きの船。船尾にはオランダの寓意である、柵に囲われたライオンの像。ファン・ワセナール=オプダム提督の旗艦で、北方戦争時、上記のエーレスンドの海戦(1658)に投入されましたが敗走を余儀なくされます。その後第二次英蘭戦争のローストフトの海戦(1665)では、ジェームズ二世やカンバーランド公ルパート等を苦しめたものの、火薬庫に引火して爆発し、オプダム提督を含むほとんどが戦死。生存者はわずか5人しかいなかったとのことです。

デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン

Storck, Four Days Battle

Abraham Storck (1666-1708) 「四日間海戦 (1666)」 In Wikimedia Commons

デ・ロイテル提督とともに、第二次英蘭戦争・第三次英蘭戦争の多くの戦いを共にした旗艦。「七州」の意味です。船尾は共和国の紋章を中央に、七州それぞれの紋章が囲んでいるモチーフです。オランダ共和国の別名でもあるポピュラーな名称なので、歴代オランダ海軍にも同名の戦艦が複数存在しています。

このストルクの絵画は第二次英蘭戦争期の「四日間海戦」。17世紀最大規模かつ最長の海戦です。日ごろ攻囲戦ばかり見ているので、4日で最長というのは不思議な気もします。左がオランダ船、右がイングランド船ですが、中央の『デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン』のほかに、コルネリス・トロンプ提督の『ホランディア』、英ジョージ・モンク提督の『ロイヤル・チャールズ』、また、50年以上の戦歴を持つ英『プリンス・ロイヤル』も描かれています。

ハウデン・レーウ

BattleOfTexel

Willem van de Velde the Younger (1687) In Wikimedia Commons 「テセル島沖海戦の『ハウデン・レーウ』(1673)」

このサイト名として採用した『金獅子』を意味する船。コルネリス・トロンプの旗艦で、第三次英蘭戦争に主に投入されています。船尾のモチーフは名前そのものの金獅子とナッサウブルー。当時のオランダ船では最大級。テセル島の海戦(1673)では、デ・ロイテル提督の『デ・ゼーフェン=プロフィンシーエン』、コルネリス・エベルトセン(甥)の『ジーリクゼー』などと共に参戦しており、ルパート公率いる英仏連合軍を破っています。上記の絵では、超オランイェ派のコルネリス・トロンプらしく、オランイェ公旗(三本ではなく六本ストライプになっているもの)が目立ちます。

ワルヘレン

De mislukte aanslag van de Engelsen op de retourvloot in de haven van Bergen - The failed attempt of the English on the Dutch ships returning from Bergen. August 12 1665 (Willem van de Velde I, 1669)

Willem van de Velde the Elder (1665-1673) 「ベルゲン湾の戦い (1666)」 In Wikimedia Commons

エベルトセン提督一族が旗艦とした船。最初に投入された1666年6月の「四日間海戦」では、第一日めに、この『ワルヘレン』に乗っていたコルネリス・エベルトセン(父)が戦死し、この戦いの間息子のコルネリス・エベルトセン(子)が代わりに指揮を執ります。直後の8月、ヤン・エベルトセン(コルネリス父の兄)が「二日間海戦(聖ジェームズの日の海戦)」で戦死、やはりコルネリス・エベルトセン(子)が引き継ぎました。

第三次英蘭戦争の際にはバンケルト提督の旗艦となりますが、名誉革命でオランイェ公ウィレム三世がイングランドへ渡る際にその乗艦として持ちいられ、その後、オランイェ派だったエベルトセンが再度旗艦とすることになりました。が、イングランドからの岐路、入港時に埠頭に衝突してあえなく沈没してしまったそうです。

リファレンス

  • クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
  • ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
  • 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
  • マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
  • ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年