フロール攻囲戦(1627) Beleg van Grol

Siege of Grol (Groenlo) 1627 - Grolla Obsessa et Expugnata (J.Blaeu)

Joan Blaeu (1649) “Atlas van Loon” 「フロール攻囲戦 (1627)」 In Wikimedia Commons

フロール攻囲戦 Grol 1627/7/20-8/19
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ=ラレック伯ウィレム(ホラント提督)
ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー
シャティヨン元帥ガスパール三世ド・コリニー
ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム
ウィンブルドン子爵エドワード・セシル
ヨハン=ヴォルフェルト・ファン・ブレーデローデ
リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー

マテイス・ファン・デュルケン
ランベルト・フェルレイケン
ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク

先年のオルデンザール奪還を追い風に、フロールの攻囲戦が決定される。オランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、ブレダでスピノラが用いた環状防衛線を使い、スペイン軍を完全に封じ込めわずか一月でフロールを手中にした。十二年休戦以降初の大勝利として大々的に祝われた成功の裏で、実は司令官たちはスピノラの影に脅えていた――。フレデリク=ヘンドリクが完全なる自信を手にするには、二年後のスヘルトヘンボスまで待たねばなるまい。

エルンスト=カシミール伯が指名した三人めは、非常に勇敢で意志の強い若者、ホラント提督だった。先のオランイェ公、亡き兄マウリッツの庶子でもある。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/ Picart, “Memoires”

はじめに

オランダ側の参加者は非常に多いです。ヴィアーやセシルというイングランド軍の歴戦の猛者を筆頭に、若手も目立ちます。他にもナッサウ伯ユスティヌスや、のちのイングランド内戦時で活躍する何人かの有名な将校たちが含まれています。 冒頭のオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの台詞に挙げた「三人め」というのは、やはり冒頭に掲げたブラウの地図にヒントが隠れています。地図をよく見ると陣地の大きな順にAからEまでの番号が付されています。

  1. フレデリク=ヘンドリクの本陣(右下)
  2. エルンスト=カシミールの陣(右上)
  3. ホラント提督の陣(左下)

つまり、先代のオランイェ公マウリッツの、庶子とはいえ長男であるウィレムが、オランダ軍第三の地位を得て陣をまかされていたことがわかります。相変わらず一族の参戦者が多くわかりづらいので、文中ではフレデリク=ヘンドリクが彼を呼んでいたように「ホラント提督」と表記します。

経緯

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Georg Keller (1627) 「フロール攻囲戦 (1627)」 In Wikimedia Commons

フロールはこれまでに何度もオランダ・スペイン間で攻囲戦の舞台になり、1606年の「スピノラの遠征」以降はスペインの支配下にありました。かつてのハンザ都市で、周囲に穀倉地帯を持つフロールはスペインによって重税を課され、この一帯の貴重な資金源のひとつとなっていました。それに目を付けたホラントやゼーラントの議員たちの後押しにより、フロールの攻囲戦が決定されます。

また、この時点でスペイン軍のロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラが軍を出せない、と見込まれたこともオランダに有利でした。ベルヘン=オプ=ゾームとブレダの攻囲戦でスピノラ将軍の資金も尽き、これ以上フランドルに軍を展開することができなくなっていたためです。

そこでスペインは、アントウェルペンのファン・デン=ベルフ伯にフロール救援を託します。ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクはスピノラ将軍の副官にして、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの従兄でもあり、オランダとはこれまでも何度か戦ってきている相手です。

「環状防衛線」

Siege works used during the siege of Grol in 1627

Hugo de Groot (1629) / J.Goris (1681) 「フロールの攻囲戦術 (1627)」 In Wikimedia Commons

フレデリク=ヘンドリクはフロールに到着すると、まず真っ先に環状包囲を敷くことにしました。2年前にスピノラ侯が用い、援軍の妨げになった環状防衛線をそっくりそのままカウンターしたわけです。が、環状攻囲自体は、フレデリク=ヘンドリクのオリジナルでも目新しいものでもありません。同じフロール攻囲戦でも、既に兄のマウリッツが30年も前に用いており、各国連隊にそれぞれ砦を築かせそこから各国競わせて塹壕を掘る、という方法も同じです。マウリッツ同様フレデリク=ヘンドリクも、スペイン軍との野戦での対決をとにかく避けることを第一義としていました。

それでもこの攻囲戦の特徴として環状防衛線が挙げられているのは、マウリッツやスピノラの改善努力(計算がより重要となり緻密さが増したこと)に加え、何よりもその包囲戦の長さによるものでしょう。マウリッツ時代よりも二周りくらい外側に建設されています。フレデリク=ヘンドリクは最初に騎兵に主だった街道を封鎖させ、その後兵士の他に近隣の労働者も雇って、16kmもの長さに渡る円形の塹壕をわずか10日ほどで完成させました。

上掲の堡塁模式図は、当時フランスに亡命中のグロティウスによって描かれています。マウリッツのクーデターで禁固刑とされ、1622年に脱獄したグロティウスは、マウリッツの死後その弟で自らの友人でもあるフレデリク=ヘンドリクに何度も帰国の許可を求めましたが、その都度拒否され続けてきました。そのフレデリク=ヘンドリクの攻囲戦を分析したものを敢えて出版したのは、その成功を讃えることで帰国を勝ち取ろうとしたのだと推測されますが、フレデリク=ヘンドリクの態度は最後まで変わることはありませんでした。

Siege of Groenlo 1627 - Approches highlighted

フロールへの三方からのアプローチ In Wikimedia Commons 緑がエルンスト=カシミール元帥の蘭軍、赤がヴィアー将軍の英軍、青がシャティヨン元帥の仏軍です

防衛線の掘削と同時に砦の建設も進められ、エルンスト=カシミール将軍のフリース連隊、ヴィアー将軍のイングランド連隊、シャティヨン元帥のフランス連隊がそれぞれ三方に建設した自国の砦から、フロールの三ヶ所の城門めがけてジグザグに塹壕を掘り進めていきます。冒頭の地図にわかりやすく色をつけた画像がありました。図には二ヶ所の砲撃陣地(ピンク色)も見えます。これも凄まじいスピードで進められましたが、その原動力は、フロールの周りの水濠をいちばん先に渡った中隊へフレデリク=ヘンドリクが提示した300ギルダー(10倍の3,000ギルダーという説も有)の報奨金だったとのことです。


大きな地図で見る

リーヴェルデにある「エンゲルセ・スハンス(イングランド砦)」

このうちイングランド砦はその全体が発掘され、上記のグロティウスの図そのものの形で現在公開されています。深さ約2m、高さ約7.5mとかなり標高差があり、重機を入れた大掛かりな発掘だったようです。また、環状包囲線も続々発掘されており、近いうちに16kmの全容がわかるかもしれません。

戦闘

フロールの側の守備隊司令官はマテイス・ファン・デュルケン、副官は騎兵隊長のランベルト・フェルレイケン。オランダが瞬く間に包囲網を完成させ、塹壕を掘り進んでくるのを見て、援軍を依頼しつつ迎撃体制を敷きました。要塞の防備に自信のあったファン・デュルケンは、「砲の一撃、銃弾の一発も届くまい」と豪語していましたが、半月と経たずに自らが肩に銃弾を受けて負傷します。しかしイングランド軍の目指すベルトルム門付近はとくに守りが固く、街からの砲撃が激しいためなかなか近づけません。フレデリク=ヘンドリク本人のすぐそばに24ポンド砲の砲弾が落ちてきたこともありました。そこで英軍は多数の犠牲者を出しながら砲撃陣地を兼ねるダムを建設し、街の周りを囲む水濠を渡る手筈を整えます。

一方、守備隊司令官のファン・デュルケンの負傷のため代理の司令官となったフェルレイケンは、フリース軍に対応すべく、ニーウェ門を重点的に防備します。また、騎兵の機動性を生かしてエルンスト=カシミールの塹壕に夜襲を仕掛けました。

Groenlo 1627 belegering

Unknown (1652) 「フロール攻囲戦 (1627)」 In Wikimedia Commons

そんな時、防衛線の外側に、スペイン軍のファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクの援軍が到着しました。ファン・デン=ベルフ伯は自らの軍のほか、スピノラ将軍の命で、ライン地方に駐屯中のスピノラ軍の一部をかき集め、オランダ軍よりも上回る数を揃えてきました。逆にこのタイムロスが幸いし、ファン・デン=ベルフ軍の到着時には包囲網が完成して、全軍をもって野戦で対峙することは不可能な状態になっていました。

オランダ軍は近郊のズトフェンやデフェンテルから物資・食料の補給ルートを作っていたので、ファン・デン=ベルフ軍はその寸断を試みました。しかしそもそもスペイン軍の側が補給に苦慮しており、これも内部分裂や軍内の反乱にも妨げられてうまくいきませんでした。

8月15日、ファン・デン=ベルフ伯はエルンスト=カシミール軍キャンプ付近の堡塁に1,500名の兵で総攻撃を掛けてきました。フレデリク=ヘンドリクはそれを聞くと、自らの護衛隊と砲兵を率いて本陣を飛び出し、加勢に駆けつけます。堡塁上からの狙い撃ちによってスペイン軍の襲撃は失敗しましたが、これは実は陽動で、ファン・デン=ベルフ伯の本当の目的は、逆方面からフロールの街に700名の援軍と弾薬を運び入れることでした。しかしそれも、ベテランの英軍司令官ホレス・ヴィアー将軍の機転により阻止されています。

エルンスト=カシミールが敵を引き付けて(もっとも好き好んでではありませんが)いる間、8月16日、まずはフランス軍が門に到着し水濠を渡りました。翌日にはイングランド軍も水濠を攻略し、仏軍に約束の報奨金、英軍にもボーナスが出ることになりました。両軍は地雷によって門を開こうと試みます。しかし街の守備隊にとってはそれが文字どおり最後の砦なので、銃弾や熱した油を次から次へと浴びせかけて抵抗を続けます。

8月17日、ファン・デン=ベルフ伯は伝書鳩に「さらに援軍を呼ぶから持ち堪えるように」と書いた手紙を括りつけて街と通信を試みました。しかし鳩はフランス軍の狙撃手に撃ち落とされ、通信文はフレデリク=ヘンドリクの手元に届けられます。フレデリク=ヘンドリクはここから、昨日のような攻撃は近々にはないこと、そしてあまり手をこまねいているとスピノラ将軍が出てくる可能性があると判断し、街に降伏交渉を求めました。が、実は鳩は2羽送られていて、同じ通信文を受け取っていたファン・デュルケンは、交渉を断固拒否します。

Willem van Nassau sneuvelt bij Grol (Jacobus van Dijck)

Jacobus van Dijck (19th century) In Wikimedia Commons ナッサウ=ラレック伯ウィレムの死(歴史画)

8月18日の正午、英軍が地雷で突破口を開き、城門内になだれ込みました。ファン・デュルケンは守備隊全軍にこれを迎え撃つよう指示します。しかし副官のフェルレイケンとその騎兵隊は持ち場を動きませんでした。他の門も遠からず破られることがわかっていたからです。フレデリク=ヘンドリクは城門突破の報を受け取ると現場へ向かいます。

「重大な過失」とフレデリク=ヘンドリク自身がのちに語ったように、そのとき彼らの到着した塹壕はやや浅く、街からの銃撃が届いてしまいました。そこでフレデリク=ヘンドリクのすぐそばにいた甥のホラント提督が銃弾を受けて即死、2人の英軍将校も大怪我をしました。フレデリク=ヘンドリクは戦場で目立つ羽根飾りのついた帽子をかぶっていたため、狙い撃たれた際に弾が外れ、近くに居たホラント提督が犠牲になったものと思われます。

余波

ホラント提督の戦死翌日、街は開城し、3日後にスペイン駐屯兵と住民は名誉ある退去が認められました。共和国の支配下に入った街はプロテスタント化されることになりました。が、下位のカトリック聖職者は街に留まっても良いという破格の条件がつけられたため、スペインの支配が長く、ミュンスター司教の影響も強いこの街では、比較的多くのカトリックが残り続けることになります。

街の周りを囲んだ防衛線は、逆に将来スペイン軍に使われると自分たちにとって命取りとなるため、すぐに埋め戻す措置が取られました。この工事に若干時間を取られたことに加え、フレデリク=ヘンドリクはスピノラ将軍による奪還の可能性を恐れ、冬営直前の10月末までフロールを動くことができませんでした。ハーグへの帰還は11月になってからで、長らく華々しい勝利から遠ざかっていた本国では、久々のお祭り騒ぎに湧きました。

Feestelijke ontvangst van Frederik Hendrik op het buitenhof te 's-Gravenhage

C.J.Quintyn (1627) フレデリク=ヘンドリクのハーグ凱旋 In Wikimedia Commons 10/2との記載があるので、兵だけ残し、将校陣のみ先に帰還したのかもしれません。

攻囲戦自体は1ヶ月間でしたが、その後の駐留およびフロールの要塞の強化のための費用も含め経費は莫大なものとなりました。翌年の遠征が話にも登らなかったほどです。2年後にスヘルトヘンボス攻囲戦が企画されますが、これも、ピート・ヘインのスペイン船拿捕による巨額の臨時収入があったからであって、何より金銭面の問題がこれ以降の大規模攻囲戦のいちばんのネックとなります。

状況はスペイン側でも同じです。この防衛失敗の矛先は、現場に居たファン・デン=ベルフ伯ではなく、スピノラ将軍に向けられました。スピノラ将軍は今まで長年に渡って立て替えてきた軍費の支払を求めるため、1628年の初めにマドリードへ赴いていました。しかしスペイン本国では、スピノラ将軍が既に破産して軍を出せる状態ではなかったにもかかわらず、フロールで「何もしなかった」ことが散々に非難されました。もちろん支払交渉もまったく進まず、借財を踏み倒された挙句に責任まで押し付けられ、スピノラ将軍にとっては踏んだり蹴ったりの結果となります。この後スピノラ将軍はマントヴァ転戦を命じられ、二度とオランダ戦線に復帰することはありませんでした。

フレデリク=ヘンドリクはこの軍事的成功により兄マウリッツの劣化コピーではないことを示しましたが、さらに内政や外交にも目を向け始めていました。フランスがオランダと同盟して三十年戦争に参戦するのはまだ8年も先の話ですが、この年すでに大使のアールセンがリシュリュー枢機卿に対し、「オランイェ公は国政に介入する準備がある」として、「共通の敵」スペインに対し協同することを持ち掛けています。ただ、この時点でのリシュリューは、未だフレデリク=ヘンドリクの軍事的な能力については「フランスの資金援助があったからうまくいっただけでしょう」として多分に懐疑的だったようです。

歴史再現イベント

Groenlo kanon

カノン砲 In Wikimedia Commons フロールの街中にはあちこちに大砲が置いてあります

フロールの街では2005年から、1627年のオランイェ公フレデリク=ヘンドリクによる攻囲戦を模した、「Slag om Grolle (SoG)」という歴史再現イベントを開催しています。 サイト内詳細記事はこちら

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Kikkert, “Frederik Hendrik”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Prinsterer, “Archives”
  • Picart, “Memoires”