ウィンブルドン子爵エドワード・セシル Edward Cecil, 1st Viscount Wimbledon

Edward Cecil, Viscount Wimbledon by Michiel Jansz. van Miereveldt

Michiel Jansz. van Miereveldt (17th century) In Wikimedia Commons

  • 初代ウィンブルドン子爵 1st Viscount Wimbledon、パットニー男爵 Baron Cecil of Putney、サリー統監 Lord Lieutenant of Surrey、ポーツマス知事 Governor of Portsmouth
  • 生年: 1572/2/29 バーゲレイ(英)
  • 没年: 1638/11/16 (英)

生涯

エリザベス一世の宰相だったウィリアム・セシルは祖父、ロバート・セシルは叔父。1596年からオランダに渡り、駐オランダ英軍司令官フランシス・ ヴィアー卿のもとで軍事経験を積みました。1600年のニーウポールトの戦いではフランシスの副官として騎兵を率い、翌年のオーステンデ攻囲戦では、その軍功によって、エリザベス女王より直々にナイトに叙せられています。フランシスが退役すると、フランシスの弟ホレス・ヴィアーを含む4名共同で司令官職を引き継ぎます。オランダでは休戦前の1609年までイングランド騎兵連隊長を務め、その後ユーリヒ=クレーフェ継承戦争に介入しました。

ちなみに、セシルはナッサウ伯マウリッツの代理として、その従弟ナッサウ伯エルンスト=カシミールの息子たちの代父を務めています。

セシルの名声は宮廷でも高かったのですが、1620年以降、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの支持を得てしまったことが失敗につながります。1620年のプファルツ介入をめぐって一時ホレスとは緊張状態になり、また、バッキンガム公に命じられておこなった1625年のカディス遠征は失敗に終わりました。1627年、おそらくバッキンガム公の無茶な計画であるラ・ロシェル遠征を避ける目的もあり、オランダ戦線に復帰します。1627年のフロールと1629年のスヘルトヘンボス攻囲戦に参加し、その後は官職を得てイングランドで暮らしました。

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