レスター伯ロバート・ダドリー Robert Dudley, 1st Earl of Leicester

Portrait of Robert Dudley Earl of Leicester (1532-1588)

William Segar (1587-88) In Wikimedia Commons

  • 初代レスター伯 Earl of Leicester、ネーデルランド執政 Landvoogd van de Nederlanden
  • 生年: 1532/6/4(英)
  • 没年: 1588/9/4 オックスフォードシャー(英)

生涯

エリザベス一世の寵臣で、愛人でもあったといわれています。父親がイングランド王室への反逆罪で処刑されているにもかかわらず、異例の出世を遂げました。30歳のとき初代レスター伯となり、ウィリアム・セシルやフランシス・ウォルシンガムと並んでエリザベス一世の治世を支えた人物のひとりとされます。

オランダとの関連でいうと、彼にとっては晩年にあたる1585年の「ノンサッチ条約」以降となります。それ以前の1570年代からレスター伯はオランイェ公ウィレムと個人的に親交があり、オランダの反乱にも同情的だったため、オランダ側でもそれなりに人気はありました。(その時点でウィレムの対フランス寄りの政策が批判されていたためともいえます)。1584年のオランイェ公の暗殺、翌1585年のパルマ公ファルネーゼのアントウェルペン奪還によって、いよいよスペインの脅威を目の当たりにしたエリザベス女王は、正式にオランダ支援に踏み切ることを決定しました。しかしあくまで自身が主権を受けることはせず、レスターを代理人の「総督」として派遣します。この際、決してオランダでのさらなる地位を求めないようレスターに厳命していました。

本国の政治家としては一定の評価があるレスターでしたが、軍事司令官としてはまったくの無能で、彼が指揮したオランダでの軍事活動はことごとく失敗してしまいました。ズトフェンでは、可愛がっていた甥のフィリップ・シドニーを戦死させてしまっています。この時代のイングランド軍の戦い方は、当時まだ十代で軍事経験も乏しいナッサウ伯マウリッツをして「『騎士道精神』だけで何の戦略もなく、突進するだけの自殺行為だ」、と断じさせるほどお粗末なものでした。

レスターの失敗は軍事行動にとどまらず、野心的な政治活動にも及びました。彼の「対敵通商禁止令」によってオランダ経済は打撃を受け、レスター軍の部下の一部はパルマ公の買収に遭って離反してしまいます。またレスターはユトレヒトで勝手に執政職に就き、ホラント・ゼーラント州と対立を深めました。この行動にエリザベスが激怒していることを知ったレスターは弁明のため一度イングランドに帰国しますが、その間にオルデンバルネフェルトら議会派は、レスターの代わりにマウリッツを最高司令官に据えた上で、通商令を緩和し、対立していた諸州・諸都市の収拾に努めました。再度オランダ入りしたレスターは、パルマ公との単独講和を図ったためにさらに議会と対立を激化させ、レスター派であった人々からの支援も失ってしまいました。ここでレスターは強硬手段として、クーデター(マウリッツとオルデンバルネフェルトをイングランドへ誘拐する)を試みますが、情報が事前に漏れていたためにこれも失敗し、完全に失脚してオランダを去ることになります。

その後イングランドでは提督に任じられ、アルマダの海戦に参戦しました。その直後に病を得て死亡。嫡子はなかったため、いったんレスター伯位は空位となり、のちに甥のロバート・シドニーが再度興すことになります。

リファレンス

  • 青木道彦 『エリザベス一世―大英帝国の幕あけ』、講談社、2000年
  • 石井美樹子『エリザベス―華麗なる孤独』、中央公論新社、2009年