ヴィアー・オブ・ティルベリー男爵ホレス Horace Vere, 1st Baron Vere of Tilbury

Sir Horace Vere - Horatius Veer (1565-1635)

Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt (1615-1633) In Wikimedia Commons

  • 初代ティルベリー男爵 1st Baron Vere of Tilbury、軍需省将軍 Master-General of the Ordnance、デン=ブリール知事 Governor of Den Briel、ユトレヒト知事 Governor of Utrecht
  • 生年: 1565(英)
  • 没年/埋葬地: 1635/5/2(英)/ロンドン・ウェストミンスター寺院(英)

生涯

伯父は第十六代オックスフォード伯ジョン。父親ジェフリーはこのジョンの末弟にあたります。フランシス・ヴィアーは実兄。次兄ロバートが1589年オランダに渡ったのに次いで、兄フランシスが駐オランダ英軍中将となった翌1590年にオランダに渡りました。ロバートは1595年に戦死しましたが、自らも少将としてフランシスとともにカディス、ニーウポールト、オーステンデを含む、この時期のほとんどの戦闘に関わっています。カディスの戦功でSirの称号を受けました。フランシスが1604年に帰国した後その職務を継いだうえで(ただし総司令ではなく4人の指令格の将軍の1人)、オーステンデ、スライス、ミュルハイムなどを転戦し、ちょうど同時期に現れたスペインのフランドル方面軍総司令のスピノラ将軍と戦っています。1607年イングランドに一時帰国し、その際にトレーシー卿ジョン一世の娘メアリと結婚しました。子供は女子ばかり5人。

十二年休戦期、まずは1609年の兄の死に伴ってブリール知事を引き継ぎます。クーデター期のナッサウ伯マウリッツの「市政の刷新」にも協力し、1618年にユトレヒト知事となりました。特筆すべきは1620年、国王ジェームズ一世の命によるプファルツ介入です。ジェームズの娘婿・選帝侯フリードリヒ五世は「白山の戦い」に敗れ本国のプファルツに戻ってきていましたが、ホレスがそのイングランド援軍の指揮を執りました。このとき、スピノラ将軍や三十年戦争で有名なティリー伯とも戦っています。実は、オランダ人以上にスピノラと何度も戦っているのはこのホレスです。

兄とは仲は良かったのですが、性格は正反対だったようで、フランシスにはない物腰の柔軟さがあり、裏表の無い人物だったようです。英軍の将校や兵士たちも、フランシスのことは恐れ、ホレスのことは敬愛していました。軍人としてもフランシス以上に有能だったとする説もありますが、兄の死後さらに20年以上の軍事経験があることを考慮すると、単純に比較できるものではないと思われます。それでも、娘婿トマス・フェアファクスをはじめとしたホレスの直接の弟子たちが、のちのピューリタン革命において、「新型軍」をはじめとして議会軍・国王軍双方の革新に寄与したことは事実です。ちなみに、フランシスが現役のうちは常に軍事行動を共にしていたため、ホレスも兄同様、頻繁に大怪我(やはり銃弾が脚を貫通などのけっこうなもの)に見舞われています。

休戦が明け、マウリッツが死去してからも引き続き、その弟のオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの頼もしい友軍であり続けました。「マウリッツの十年」時代同様、ブレダ、スヘルトヘンボスをはじめとして、フレデリク=ヘンドリクの初期の攻囲戦や遠征のほとんどに参戦し、イングランド人でありながら、オランダ八十年戦争の中後期の戦いの大半を経験したことになります。マーストリヒト遠征の後、退役してイングランドに帰国し、3年後脳卒中で死亡。遺体はすぐに兄フランシスの隣に葬られました。ホレスは1624年に初代ティルベリー男爵家を興していましたが、男子の相続者が居なかったため、その死によって一代のみで終わっています。

Francis Vere Tomb 1860

Charles Knight (1860?) In Wikimedia Commons

参考: ウェストミンスター寺院ホームページ Vere, Sir Francis Vere and Horace Vere

シェイクスピアの『ハムレット』の登場人物「ホレーシオ」は、このホレスがモデルになっているという説があります。「シェイクスピア別人説」の候補者の筆頭が、彼らの従兄にあたる第十七代オックスフォード伯エドワード・ヴィアーなので、その裏づけとしての説のようです。

DVD『To Kill a King』(クロムウェル~英国王への挑戦~)に、ホレスが主人公トマス・フェアファクスの舅役で出演してます。1635年没なのに何故?回想シーン?と思いきや、長生きしてる設定とか。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

ハーコート卿シモン Sir Simon Harcourt

Simon Harcourt Jode

Pieter de Jode II (17th century) In Wikimedia Commons

  • タブリン知事 Governor of the city of Dublin
  • 生年: 1603 スタントン・ハーコート?(英)
  • 没年: 1642/3/27 ダブリン(愛)

生涯

ノルマン・コンクエスト以来の家系ハーコート家の長男で、母親はフランセス・ヴィアー。ヴィアー卿フランシス、ホレスの兄弟の妹です。この時代のハーコート家はフランス系のほうが栄えていて、イングランドでは弱小貴族です。そのため、シモンも一介の軍人として身を立てるしかなく、母方の伯父のホレスを頼って16歳には軍務に就いています。その後もホレスが死亡する頃まで、ともにオランダで戦ったと思われます。Sirの称号を得たのは1627年6月、フロール攻囲戦に先んじてのことです。

1636年にイングランドに帰国、1639-40年にはスコットランド、1641年以降はアイルランドで戦いました。最後はアイルランドで戦死しています。

ボヘミア「冬王」フリードリヒ五世の妃で英王女のエリーザベト・ステュアートは1621年以降亡命してハーグに滞在しており、たくさんの信奉者が居ました。シモンもそのうちのひとり、というよりおそらく愛人です。彼がイングランドに帰国する際は、エリーザベト自らが兄王の顧問を務めるカンタベリー司教ウィリアム・ロードに宛てて、シモンに便宜を図るよう手紙を書いています。

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