オックスフォード伯たち Earl of Oxford

Oxford coat of arms

“Nothing more true than truth” (1574) In Wikimedia Commons

第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーについては、このサイトでは個別記事としては扱っておりません。『もうひとりのシェイクスピア』の鑑賞メモはこちらをどうぞ。

1585年の英蘭間の「ノンサッチ条約」時にオランダに義勇兵としてやってきて、後に駐蘭英軍司令官となったフランシス・ヴィアー。彼以降、ヴィアー家の人々は続々とオランダへ軍人稼業をしにやってきます。フランシスの弟ホレスの時代になると、ヴィアー本家(オックスフォード伯)の人々も参加するようになりました。彼らのオランダでの軍事経験が、のちのイングランド内戦の王党派・議会派両軍に影響を与えることにもなります。

なおヴィアー家は、伯爵位(オックスフォード伯)がある場合に「ド・ヴィアー」と「ド」がつくようです。

エドワード・ヴィアー=ヴァヴァサワー卿 Sir Edward Vere-Vavasour

  • イングランド連隊中隊長(1599)、副連隊長(1614)
  • 生年: 1581/3/21 ホワイトホール宮殿?(英)
  • 没年/埋葬地: 1629/8/9 スヘルトヘンボス(蘭)/ボモネル?

生涯

第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーの庶子。ヘンリー・ド・ヴィアーにとっては腹違いの兄にあたります。父親に放置され母親の愛人のもとで育ち、15歳で父の従兄弟のフランシス・ヴィアーを頼ってオランダに渡りました。レイデン大学で教育を受けているので、かなり手をかけてもらったと考えられます。成人後すぐにイングランド連隊で将校となり、フランシスの退役後、その弟のホレスの連隊の副連隊長を務めました。頻繁にイングランドにも出入りしています。

軍人というよりどちらかというと学者肌で、夏は戦い冬は勉強していたとか。オランダの宗教論争期、アルミニウス派に嫌悪感を示していました。オランダのイングランド連隊の中では、エドワード・セシル(叔母が第十七代オックスフォード伯の正妻)や駐蘭大使カールトンと非常に仲が悪く、ホレス・ヴィアーの頭痛の種になっていました。セシルとは決闘騒ぎになり、オランイェ公マウリッツは両者の逮捕という強硬策で仲裁をしています。スヘルトヘンボス攻囲戦時に流れ弾に当たって戦死。

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第十八代オックスフォード伯ヘンリー・ド・ヴィアー Henry de Vere, 18th Earl of Oxford

Henry de Vere, 18th Earl of Oxford from NPG

Unknown (1620-25) In Wikimedia Commons

  • 第十八代オックスフォード伯 18th Earl of Oxford
  • 生年: 1593/2/24 ニューイントン(英)
  • 没年/埋葬地: 1625/6/2-9 ハーグ(蘭)/ウェストミンスター寺院(英)

生涯

第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーの長男。フランス・イタリアへのグランド・ツアーの最中、ヴェネツィアでグラディスカ戦争に派遣されていたオランダ軍に志願兵として参加します。オランダでの軍務への就きかたとしては若干特殊です。帰国後、ホレス・ヴィアーのもとでプファルツ遠征にも参加しました。

婚約をめぐってバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズとのいざこざがあり、それ以降バッキンガム公との政争に巻き込まれ、ロンドン塔送りも二度経験しています。1623年年末に保釈されると、ヘンリーは第二代エクスター伯ウィリアム・セシルの娘と結婚しますが、バッキンガム公からの和解の申し出は断っています。翌年、連隊長としてブレダ攻囲戦に参戦、1625年5月の「テルヘイデンの戦い」で負傷し、翌月ハーグで熱病で亡くなりました。

リファレンス

第十九代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアー Robert de Vere, 19th Earl of Oxford

Robert de Vere, 19th Earl of Oxford, 1629, Cornelius Johnson

Cornelis Johnson (1629) In Wikimedia Commons

  • 第十九代オックスフォード伯 19th Earl of Oxford
  • 生年: 1585/8/23以降? 1599? ?(英)
  • 没年: 1632/8/7 マーストリヒト(蘭)

生涯

フランシスとホレスの従兄弟ヒュー・ド・ヴィアーの一人息子で、ヘンリー・ド・ヴィアーの又従弟。早くからホレス・ヴィアーのもとオランダ戦線に出ていたようです。先代のオックスフォード伯ヘンリーとともにブレダ攻囲戦に参戦。ヘンリーが戦死すると、曽祖父が第十五代オックスフォード伯だったことを根拠にオックスフォード伯の継承を申し入れ、貴族院との協議ののち翌年4月に認められました。

それでもイングランドには留まらずオランダでの軍務に戻ります。やはり従兄弟にあたるエドワード・ド・ヴィアー(第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーの庶子)が1629年のスヘルトヘンボスで戦死すると、その跡を継いでイングランド軍の連隊長になります。しかし彼自身、1632年のマーストリヒト攻囲戦で、援軍を率いて塹壕に向かう途中に戦死しました。

6歳の息子オーブリーが第二十代オックスフォード伯を継ぎますが、男子の後継者がなく、ヴィアー家のオックスフォード伯は二十代で途切れることになります。

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