ヴィアー家とオックスフォード伯 House Vere and Earl of Oxford

Oxford coat of arms

“Nothing more true than truth” (1574) In Wikimedia Commons

第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーについては、このサイトでは個別記事としては扱っておりません。『もうひとりのシェイクスピア』の鑑賞メモはこちらをどうぞ。

1585年の英蘭間の「ノンサッチ条約」時にオランダに義勇兵としてやってきて、後に駐蘭英軍司令官となったフランシス・ヴィアー。彼以降、ヴィアー家の人々は続々とオランダへ軍人稼業をしにやってきます。フランシスの弟ホレスの時代になると、ヴィアー本家(オックスフォード伯)の人々も参加するようになりました。彼らのオランダでの軍事経験が、のちのイングランド内戦の王党派・議会派両軍に影響を与えることにもなります。

なおヴィアー家は、伯爵位(オックスフォード伯)がある場合に「ド・ヴィアー」と「ド」がつくようです。

ロバート・ヴィアー Robert Vere

  • 生年: 1562 (英)
  • 没年: 1595/8/24 ラインベルク(蘭)

生涯

フランシスとホレスの兄弟。伯父は第十六代オックスフォード伯ジョン。父親ジェフリーはこのジョンの末弟にあたります。1589年、先にオランダで従軍していた兄フランシスを頼ってオランダに渡り、翌年同じく志願兵となった弟ホレスとともにオランダで戦いました。兄と弟は歩兵将校でしたが、ロバートは騎兵将校です。1595年のフロール攻囲戦の際、ナッサウ伯フィリップスの計画した奇襲作戦のメンバーに加わり、ゾルムス伯エルンストなどを含む少数の騎兵で参戦し失敗。リッペ川付近の乱戦で、スペインの長槍兵と戦って戦死しました。(いったん捕虜になったうえ殺されたという説もあります)。その年の冬に、遺体は兄弟たちによってイングランドへ運ばれました。

リファレンス

ヘンティは小説。

  • G.A. Henty By England’s Aid, 1900

第十八代オックスフォード伯ヘンリー・ド・ヴィアー Henry de Vere, 18th Earl of Oxford

Henry de Vere, 18th Earl of Oxford from NPG

Unknown (1620-25) In Wikimedia Commons

  • 第十八代オックスフォード伯 18th Earl of Oxford
  • 生年: 1593/2/24 ニューイントン(英)
  • 没年/埋葬地: 1625/6/2-9 ハーグ(蘭)/ウェストミンスター寺院(英)

生涯

第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーの長男。フランス・イタリアへのグランド・ツアーの最中、ヴェネツィアでグラディスカ戦争に派遣されていたオランダ軍に志願兵として参加します。オランダでの軍務への就きかたとしては若干特殊です。帰国後、ホレス・ヴィアーのもとでプファルツ遠征にも参加しました。

婚約をめぐってバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズとのいざこざがあり、それ以降バッキンガム公との政争に巻き込まれ、ロンドン塔送りも二度経験しています。1623年年末に保釈されると、ヘンリーは第二代エクスター伯ウィリアム・セシルの娘と結婚しますが、バッキンガム公からの和解の申し出は断っています。翌年、連隊長としてブレダ攻囲戦に参戦、1625年5月の「テルヘイデンの戦い」で負傷し、翌月ハーグで熱病で亡くなりました。

リファレンス

第十九代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアー Robert de Vere, 19th Earl of Oxford

Robert de Vere, 19th Earl of Oxford, 1629, Cornelius Johnson

Cornelis Johnson (1629) In Wikimedia Commons

  • 第十九代オックスフォード伯 19th Earl of Oxford
  • 生年: 1585/8/23以降? 1599? ?(英)
  • 没年: 1632/8/27 マーストリヒト(蘭)

生涯

フランシスとホレスの従兄弟ヒュー・ド・ヴィアーの一人息子で、ヘンリー・ド・ヴィアーの又従弟。早くからホレス・ヴィアーのもとオランダ戦線に出ていたようです。先代のオックスフォード伯ヘンリーとともにブレダ攻囲戦に参戦。ヘンリーが戦死すると、曽祖父が第十五代オックスフォード伯だったことを根拠にオックスフォード伯の継承を申し入れ、貴族院との協議ののち翌年4月に認められました。

それでもイングランドには留まらずオランダでの軍務に戻ります。やはり従兄弟にあたるエドワード・ド・ヴィアー(第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーの庶子)が1629年のスヘルトヘンボスで戦死すると、その跡を継いでイングランド軍の連隊長になります。しかし彼自身、1632年のマーストリヒト攻囲戦で、援軍を率いて塹壕に向かう途中に戦死しました。

6歳の息子オーブリーが第二十代オックスフォード伯を継ぎますが、男子の後継者がなく、ヴィアー家のオックスフォード伯は二十代で途切れることになります。

リファレンス

ハーコート卿シモン Sir Simon Harcourt

Simon Harcourt Jode

Pieter de Jode II (17th century) In Wikimedia Commons

  • タブリン知事 Governor of the city of Dublin
  • 生年: 1603 スタントン・ハーコート?(英)
  • 没年: 1642/3/27 ダブリン(愛)

生涯

ノルマン・コンクエスト以来の家系ハーコート家の長男で、母親はフランセス・ヴィアー。ヴィアー卿フランシス、ホレスの兄弟の妹です。この時代のハーコート家はフランス系のほうが栄えていて、イングランドでは弱小貴族です。そのため、シモンも一介の軍人として身を立てるしかなく、母方の伯父のホレスを頼って16歳には軍務に就いています。その後もホレスが死亡する頃まで、ともにオランダで戦ったと思われます。Sirの称号を得たのは1627年6月、フロール攻囲戦に先んじてのことです。

1636年にイングランドに帰国、1639-40年にはスコットランド、1641年以降はアイルランドで戦いました。最後はアイルランドで戦死しています。

ボヘミア「冬王」フリードリヒ五世の妃で英王女のエリーザベト・ステュアートは1621年以降亡命してハーグに滞在しており、たくさんの信奉者が居ました。シモンもそのうちのひとり、というよりおそらく愛人です。彼がイングランドに帰国する際は、エリーザベト自らが兄王の顧問を務めるカンタベリー司教ウィリアム・ロードに宛てて、シモンに便宜を図るよう手紙を書いています。

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