オーグル卿ジョン Sir John Ogle

John Ogle

Jan Anthonisz. van Ravesteyn (after 1604) In Wikimedia Commons

  • オーグル卿 Sir Ogle、ユトレヒト知事 Governor of Utrecht
  • 生年: 1569 ピンチベック(英)
  • 没年/埋葬地: 1640/3/17 ロンドン/ウェストミンスター寺院(英)

生涯

1591年の初期からオランダに渡り、駐オランダ英軍司令官フランシス・ ヴィアー卿のもとで軍事経験を積みました。1600年のニーウポールトの戦いではフランシスの副官として騎兵を率い、オーステンデ攻囲戦にもヴィアーとともに参加。ナイトに叙せられたのは、エリザベス一世からジェームズ一世に代替わりしてすぐの1603年です。フランシスが退役すると、フランシスの弟ホレス・ヴィアーを含む4名共同で司令官職を引き継ぎます。が、そのうちの2人、ホレス・ヴィアー、エドワード・セシルとは事ある毎に意見が対立しました。

政治にも興味をもっており、1610年、ユトレヒト州の州総督でもあるナッサウ伯マウリッツから、ユトレヒトの知事に任命されました。オーグルはマウリッツともこのように友好を保っており、同時に、かつて心酔していた上司フランシス・ヴィアーと親しかった法律顧問のオルデンバルネフェルトにも義理を感じていました。マウリッツとオルデンバルネフェルトの対立が徐々に表面化していった十二年休戦中のこの時期、ユトレヒトは何度か騒乱(内乱に満たない程度の騒動)に巻き込まれ、オーグルは難しい立場に立たされます。これら両者を尊重するあまり、はっきりとしない態度をとっていたことが災いして、1618年、オーグルはユトレヒト知事を罷免されイングランドに帰国することになりました。

ニーウポールトでオーグルは馬の下敷きになったフランシスを助け出しましたが、そのときフランシスの血が付いた衣服をその後もこれ見よがしに着続けていました。正直、彼のフランシスへの心酔は軽くホラーです。。。

帰国後は国王ジェームズ一世の軍事顧問官などを務めました。晩年は事業に手を出して失敗などもしています。

スライス攻囲戦(1604)で左目を失い、その後ずっと黒い眼帯をつけていたとのこと。また、ちょうどユトレヒト知事を務めていた期間中、仕事そっちのけでバージニア会社への投資に夢中になっていたこともあるようです。

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