モーガン卿たち Sir Morgan

INTERIEUR, GRAFMONUMENT MORGAN - Bergen op Zoom - 20281582 - RCE

ベルヘン=オプ=ゾーム聖ゲルトルート教会の墓標 In Wikimedia Commons

ノリス兄弟と並び、オランダで戦ったイングランド出身の職業軍人の代表格。同様に親族でネーデルランド入りしましたが、中でもベルヘン=オプ=ゾーム知事を務めた2人を取り上げます。

ちなみに、1588年の攻囲戦以降、ベルヘン=オプ=ゾームの知事は歴代重要人物が務めています。()内もしくは†は交代要因。

トマス・モーガン Sir Thomas Morgan

  • フリッシンゲン知事(1585-87)、ベルヘン=オプ=ゾーム知事(1588-93)
  • 生年: 1542 グラモーガンシャー(英)
  • 没年: 1595/12/22 ニュー・フラム(英)

生涯

オランイェ公ウィレムの第二次侵攻、即ちいわゆる「海乞食」の勃興の時期、最初期のイングランド義勇軍としてオランダに渡った職業軍人です。資金難や人数集めのため何度かイングランドとの間を行き来しながら、1572年のフリッシンゲン上陸を皮切りに、1573年のハールレム攻囲戦やミデルブルフ攻囲戦に参加します。いったんアイルランド戦役を経て、ノリス卿ジョンの軍に加わって再び1578年にオランダ入りし、主にパルマ公の軍と戦いました。1585年のアントウェルペン攻囲戦ではリロ砦防衛やカウウェンステインセ・デイクの戦いで活躍します。

オランダの連邦議会からベルヘン=オプ=ゾームの知事職を打診されたトマスでしたが、ウィラビー男爵ペレグリン・バーティー(レスター伯の後任)に執拗に妨害されました。トマスは一時帰国し(その間にアルマダの海戦に参戦)、エリザベス女王にこの旨を訴え、女王の書簡を入手します。1588年のベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦の後にベルヘン=オプ=ゾーム知事に就任しました。しかし1593年、今度はホラント州議会がベルヘン=オプ=ゾームに知事職は不要との決議をし、時期を同じくしてイングランドからの召喚命令が届いたため、トマスは知事職を半ば追われるように辞すことになります。

彼の戦士としての声望は高く、「the Warrior」とあだ名されていました。非常に折り合いの悪かったペレグリン・バーティーですら、「極めて勇敢且つ謙虚な紳士」と評しています。トマスの死後、その遺品は彼を慕うエセックス伯など多くのイングランド貴族たちに分配されました。なお、妻のアンナ・ファン・メローデはトマスの死後、ウィレム沈黙公の庶子ナッサウ伯ユスティヌスと再婚しています。

リファレンス

チャールズ・モーガン Sir Charles Morgan

Detail grafmonument van Morgan - Bergen op Zoom - 20032847 - RCE

ベルヘン=オプ=ゾーム聖ゲルトルート教会の墓標(部分) In Wikimedia Commons

  • 駐独スペイン大使(1624-29)、ベルヘン=オプ=ゾーム知事(1631-43)
  • 生年: 1575/6 モンマスシャー(英)
  • 没年: 1642/12/12 もしくは 1643/3 ベルヘン=オプ=ゾーム(蘭)

生涯

父はエドワード・モーガン。しかしその親兄弟が不明なため、トマス・モーガン(同じく親兄弟不明)との血縁関係も不明です。伯父(叔父)としている資料もありました。兄のマシューとともにトマス・モーガンを頼ってオランダに義勇軍としてやって来ましたが、詳しくいつとはわかりません。兄が1591年にルーアンで騎士に叙されているので、早くとも翌年かと思われます。1596年のカディス遠征の後、駐蘭イングランド軍総司令ヴィアー卿フランシスの下でニーウポールトの戦いやオーステンデ攻囲戦に参戦しました。イングランド国王ジェームズ一世の戴冠と同時に騎士の称号を得、数年間は治安判事として務めています。しかし本国での任務が性に合わなかったのか、1607年に再度オランダに渡ると、その後十二年の休戦の時期にもイングランドには戻ることなくオランダに留まり、ベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦(1622)やブレダ攻囲戦(1624-1625)で戦いました。

1626年、三十年戦争は「デンマーク戦争」のフェーズに入っており、デンマーク国王クリスチャン四世は劣勢を強いられていました。イングランド国王チャールズ一世は、叔父(母の弟)であるクリスチャン四世を支援する軍隊の司令官にチャールズ・モーガンを指名しました。しかし集めた兵の半数は脱走、その後も両国王から援軍も資金も届かず、2年の籠城の後撤退。1628年、チャールズはいったんイングランドで国王に支援を直談判するものの、そのままデンマーク戦線へ戻され、再度資金難に苦慮します。結局クリスチャン四世の降伏によりイングランド軍は解雇され、チャールズはオランダに渡りました。

オランダではちょうど空席となっていたベルヘン=オプ=ゾーム知事に任じられ、その後ブレダ攻囲戦(1637)に参加した後、晩年は知事として職務を全うしたようです。

リファレンス