オルデンバルネフェルトの兄弟・息子たち

Wapen Van Oldenbarnevelt

In Wikimedia Commons

法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの、血のつながった兄弟や息子たちです。

レイエル・ファン・オルデンバルネフェルト Reyer van Oldenbarnevelt

  • 生年: 1551 アメルスフォールト(蘭)
  • 没年: 1601/5/1 ハーグ(蘭)

生涯

ヨハンの長兄。詳しくは分かっていません。共和国軍の隊長職にあったようですが、あまり評判は芳しくなかったようです。1596年のフルスト攻囲戦では、ナッサウ伯マウリッツが彼を軍法会議にかけようとしたほど手ひどい指揮を行い、そのためフルストは実にその後50年間スペインの手に渡ることになります。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • Kikkert, “Maurits”

エリアス・ファン・オルデンバルネフェルト Elias van Oldenbarnevelt

Elias van Oldenbarnevelt, by Michiel van Miereveld

After Michiel van Mierevelt (1616) In Wikimedia Commons

  • ロッテルダム法律顧問 Pensionaris van Rotterdam
  • 生年: 1557/1/29 アメルスフォールト(蘭)
  • 没年: 1612/7/20 ハーグ(蘭)

生涯

ヨハンの弟。1586年、ロッテルダムの法律顧問として兄ヨハンの後釜に座ったため、当初は身内びいきとみなされました。エリアスはその後ポストに見合う実力をつけるようになっていき、1603年、イングランドへ赴いた際、ジェームズ一世によって騎士に叙せられるまでになります。彼の死後、ロッテルダムの法律顧問はヒューホ・デ・フロート(グロティウス)が継ぎました。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • Kikkert, “Maurits”

レイニール・ファン・オルデンバルネフェルト Reinier van Oldenbarnevelt

Reinier van Oldenbarnevelt

Crispijn van de Passe (17th century) In Wikimedia Commons

  • フルーネフェルト卿 Heer van den Tempel, Groeneveld
  • 生年: 1588 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1623/3/29 ハーグ(蘭)

生涯

法律顧問オルデンバルネフェルトの次男。ハイデルベルクで学び、弟のウィレムとともにフランスにグランド・ツアーをおこないます。ホラントの林務官やデルフラント治水長官を務めました。フルーネフェルト(野原)という名でとして知られるのも、このポジションのゆえかもしれません。1619年父の有罪判決の後、自宅軟禁されたあと公職を追われました。

1623年、弟ウィレムやスラティウス牧師とともに、オランイェ公マウリッツ暗殺の陰謀に加担します。とはいっても、もともと優柔不断で弱腰のレイニールは中心的な役割を担うことには躊躇し、資金を提供したのみでした。その企てに失敗した後逃亡しましたが、イングランドやドイツなど国外逃亡の機会があったにも関わらず、船で外洋に出るのを怖がり、フリーラント島で捕らえられてしまいます。ハーグに送られた後すぐに死刑判決を受け斬首されましたが、父ヨハンと違い、最後に家族と会う機会を与えられました。そのときの妻の「恥になるような死に様だけはやめてほしい」との願いどおり、処刑の際は最後まで堂々たる態度で臨んだそうです。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • NNBW

ウィレム・ファン・オルデンバルネフェルト Willem van Oldenbarnevelt

Willem van Oldenbarneveldt (1590-1634). Heer van Stoutenburg. Ritmeester in Spaanse en in Staatse dienst Rijksmuseum SK-A-578

Unknown (1634) In Wikimedia Commons

  • スタウテンブルフ卿 Heer van den Stoutenburg
  • 生年: 1590 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1638 ハーグ(蘭)

生涯

法律顧問オルデンバルネフェルトの三男で末息子。はじめ共和国軍の騎兵将校となるものの、兄のレイニールとともにフランスにグランド・ツアーをおこないます。そこで遊びに興じてしまったためすぐにオランダに呼び戻されました。1617年に父親の七光りでベルヘン=オプ=ゾームの知事になりましたが、その父親の逮捕・処刑に際して職を追われます。その後は田舎に転居した母の後を追って、母の家でずっと引き籠って暮らしていました。十二年休戦条約が満期となり、スペインとの戦争が再開されたのちにも軍の呼び出しに応じず、将校としての地位も失ってしまいます。

1623年のマウリッツ暗殺未遂の首謀者でしたが、共犯者が相次いで逮捕・処刑される中、スペイン執政府のあるブリュッセルに逃亡します。そこで執政イザベラの年金で暮らしました。しばらくはオランダに帰国する機会を窺っていたようですが、それが不可能とわかると、カトリックに改宗して南ネーデルランド方面軍の将校になりました。妻は、「反乱」期の英雄のひとりシント=アルデホンデ卿フィリップス・ファン・マルニクスの娘ワルブルガ。「祖国の父」オランイェ公ウィレム一世の右腕だった父を非常に誇りに思うワルブルガは、夫ウィレムのこの陰謀に激しく立腹し、事件発覚後に夫と完全に関係を絶ちました。そのおかげで、自分の個人としての財産は没収されずに済んだようです。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • BWN
  • NNBW