ファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世 Willem IV van den Bergh

Willem iv van den bergh

attributed to Antonis Mor (16th century) In Wikimedia Commons

  • ファン・デン=ベルフ伯 Graaf van den Berg、ボクスメール卿 Heer van Boxmeer、ヘルデルラントおよびズトフェン州総督 Stadhouder van Gelre en Zutphen
  • 生年: 1537/12/24 スヘーレンベルフ(蘭)
  • 没年: 1586/11/6 ウルフト(蘭)

生涯

1566年の貴族「盟約」にも名を連ね、「乞食」の最初のメンバーのひとりでもあるファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世は、「反乱」に最も重要な役割を演じた人物のひとりです。息子たちは全員スペインの将軍として活躍しますが、父親のウィレム四世がスペインに帰参したのは晩年の数年間のみのため、「スペインの人物」ではなく「オランダの人物」に分類しました。

オランイェ公ウィレム一世とは若年期に同じブリュッセルの宮廷で過ごし、「反乱」のだいぶ前の1556年にはその長妹のマリアと結婚しています。反乱勃発後、アルバ公の「血の法廷」でターゲットとなったウィレム四世は家族とともにいったんブレーメンへ亡命します。ウィレム四世が最も活躍したのは、1572年、オランイェ公ウィレム一世の「オランイェ公の第二次侵攻」の3人の主要メンバーのひとりとして、ヘルデルラント地域の多くの拠点を占拠したことです。他の2人、オランイェ公ウィレム一世とその三弟ルートヴィヒよりも戦果としては大きなものでした。

しかしその後、「ヘントの和平」によって財産没収の憂き目に遭い、さらに、希望していたヘルデルラント州総督の地位が、義理の兄であるナッサウ伯ヤン六世(しかも本人はあまり乗り気でない)に奪われてしまいます。働きに見合わないこの状況に、この頃からナッサウ伯たちへの不信を強め、ちょうどスペインの執政がパルマ公ファルネーゼに交代したタイミングで、秘密裏にスペインと交渉をはじめることになります。

1581年、ヤン六世がヘルデルラント州総督を辞めると、その後任として兄であるオランイェ公ウィレム一世が選ばれてしまいました。ファン・デン=ベルフ伯が完全に反乱側と袂を分かつ決心をした分岐点はここで、反乱軍としての軍務を放棄し続け、間接的に利敵行為をおこないました。1583年、パルマ公との文通の証拠をもとに夫婦揃って逮捕されますが、オランイェ公は「引退および中立」を条件にすぐに彼らを解放しました。が、そのオランイェ公が翌年暗殺されるに至り、彼らの息子たちはそれを期に全員スペインに下ります。ウィレム四世は隠遁したまま2年後に死去、妻のマリアだけが最後まで中立の立場を貫きました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • ADB