ウィレム・バレンツとヤーコプ・ファン・ヘームスケルク

Barents and Van Heemskerk - Schilderij van Christoffel Bisschop - 1863

Christoffel Bisschop (1863) バレンツとヘームスケルク(歴史画) In Wikimedia Commons

北東航路の開拓と「ノヴァヤゼムリャ越冬」の探検家を2人。第一次~第三次北東航路探険の詳細は下記ご参照。

ウィレム・バレンツ Willem Barentsz

Barents

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • 航海士、探検家
  • 生年: 1550頃 フォルメルム(蘭)
  • 没年: 1597/6/20 ノヴァヤゼムリャ(露)

生涯

「バレンツ海」の名前のもとになった探検家。北東航路にこだわり続け、その結果命を落としてしまうことになります。

アムステルダムの牧師兼地図製作者プランシウスは、北極海を抜けてアジアに到達する「北東航路」を提唱していました。彼と懇意にしていた航海士のバレンツは、その航路の開拓のため、遠征隊を組織します。1594年と1595年の2回は、なんとか連邦議会の支援をとりつけたものの、この二度の失敗のため、3回めの遠征は自費で、成功した場合のみ報奨金が出ることとされました。

この第一次航海のときに、ヨーロッパ人が初めて白熊と遭遇したとされます。また、セイウチの牙も持ち帰られました。

第三次航海でノヴァヤゼムリャ島に到達したとき、探検隊は島の北部を迂回して航海を続けるか、このまま帰国するかで意見がふたつに分かれます。バレンツ率いる継続派は氷に閉ざされ、船を捨てて島で越冬することになってしまいました。(残りの中止派は無事帰国します)。約10ヶ月の越冬の末、翌6月に一行はボートで帰国を試みますが、その1週間後、バレンツは衰弱死してしまいました。

リファレンス

ヤーコプ・ファン・ヘームスケルク Jacob van Heemskerk

Jacob van Heemskerk

Jacobus Houbraken (1693) In Wikimedia Commons

  • 探検家、提督
  • 生年: 1567/3/3 アムステルダム(蘭)
  • 没年: 16707/4/25 ジブラルタル(西)

生涯

ヘームスケルクもバレンツとともに第三次遠征に参加し、越冬したメンバーです。バレンツの死後さらに7週間の放浪の末、ロシア商人の船に救助され、11月にアムステルダムに帰国しました。この後、北東航路の開拓自体はおこなわれなくなりましたが、これを期にクジラ漁・アザラシ漁などが盛んになります。

この帰国から半年後、東インド会社の前身となる遠国会社に雇われたヘームスケルクは、二度東インド方面への航海に従事し、さらに東インド会社設立後も、三度めの航海をおこないました。ヘームスケルクのもたらした東洋の文物は会社に多大な配当をもたらし、ヘームスケルク自身も大金を手にしたといいます。

この資金をもとに、ヘームスケルクは再度北東航路の開拓を考えていました。しかし1607年、スペインとの休戦の話が持ち上がり、法律顧問のオルデンバルネフェルトは、スペインとの交渉を有利に進めるため、スペイン船にダメージを与えられる船長を探しており、ヘームスケルクに白羽の矢が立ちます。提督の地位を得ることに成功したヘームスケルクは、24隻の艦隊を率いて出航し、ジブラルタルの海戦でスペイン艦隊と戦い戦死しました。大砲の弾が直撃し左足を吹き飛ばされても、そのまま甲板に立っていたそうです。その時着ていた鎧が現存していますが、左足の部分は欠損しています。

リファレンス