アールセン父子 Van Aerssen

Wapen François van Aerssen 1572-1641

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父子、というより歴代四代。コルネリスばかりですが、とくに一世二世とは数えないようです。また、八十年戦争期として最も重要なのは、コルネリスではなくフランソワです。

リファレンス

  • ADB” Cornelis (I)
  • NIE” François
  • ADB” François
  • BWN” Cornelis (II)

スペイク卿コルネリス・ファン・アールセン Cornelis van Aerssen

Michiel Jansz. van Mierevelt - Portret van Cornelis van Aerssen (1545-1627), klerk bij de Staten-Generaal

Michiel Jansz. van Mierevelt (1597) In Wikimedia Commons

  • 外交官、政治家、スペイク卿 Heer van Spijk (1611)
  • 生年: 1543/5 アントウェルペン(白)
  • 没年/埋葬地: 1627/3/22 ハーグ/聖ヤコブ教会(蘭)

生涯

南ネーデルランド生まれの政治家。ブリュッセルで秘書官としてキャリアをスタートさせ、対仏の外交官として、ウィレム一世暗殺後アンリ四世とも主権交渉をおこないました。英レスター伯にも政治的助言をおこなっています。共和国が設立されると、コルネリスも連邦議会の議員として選出されますが、住居はブリュッセルのままだったので、この頃からスペイン側との関係性が取り沙汰されるようになります。

とにかく、汚職や収賄の疑惑を持たれた人物です。ニーウポールトの戦いで捕虜となったメンドーサ提督の捕虜交換交渉、十二年休戦条約交渉、それに先んじる8ヶ月停戦の交渉、などなど、南ネーデルランド側との折衝が続いたこともあります。とくに十二年休戦条約交渉では、先方から賄賂を受け取ったとかスペインに武器を流したとか疑われました。この頃までは熱心なオルデンバルネフェルトの協働者だったため、オルデンバルネフェルトの評判をも汚してしまう原因ともなります。ところが息子のフランソワがオルデンバルネフェルトと敵対するようになると、否応なく反オルデンバルネフェルト派閥へ組み込まれることになりました。

1611年にオランイェ公フィリップス=ウィレムから領地を購入してスペイク卿と称しました。1623年、老齢を理由に引退しています。

ソメルスデイク卿フランソワ・ファン・アールセン François van Aerssen

Francois van Aerssen by Michiel Jansz van Mierevelt 1636

Michiel Jansz. van Mierevelt (ca. 1636) In Wikimedia Commons

  • 外交官、法律家、ソメルスデイク卿 Heer van Sommelsdijk
  • 生年: 1572/9/27 ブリュッセル(白)
  • 没年: 1641/12/27 ハーグ(蘭)

生涯

26歳の頃からオルデンバルネフェルトに仕え、フランス大使として頭角を現しました。1609年の十二年休戦条約にも、休戦推進側として重要な役割を果たしています。が、1610年のフランス国王アンリ四世の死後、ユグノーとの癒着がカトリックの新国王ルイ十三世に好まれず、1616年にオルデンバルネフェルトによってフランス大使職を解任されてしまいます。その後はナッサウ伯マウリッツの顧問官となり、秘密裏にオルデンバルネフェルトの妨害を始めるようになりました。宗教的にも過激なホマルス派であり、これがますますオルデンバルネフェルト等との溝を深め、また、マウリッツの党派選択にも影響を与えることとなっていきました。1619年にはソメルスデイク卿となり、オルデンバルネフェルトを裁く法廷で中心的な役割をも演じています。

マウリッツの死後は引き続きオランイェ公フレデリク=ヘンドリクに仕え、プファルツ選帝侯を支援し、ベネチア、ドイツ、イングランド大使も歴任しました。フランスのリシュリュー枢機卿は、「当代最も偉大な外交官」として、スウェーデン宰相オクセンシェルナに並び、このアールセンの名を挙げています。

アールセンは一般的に、マウリッツ時代のほうに言及されている印象がありますが、その本領発揮はフレデリク=ヘンドリク時代のほうではないかと考えています。1630年代のヨーロッパは三十年戦争のさなかにあり、

  • オランダ共和国 … スタットハウダー派と連邦議会派
  • フランス …  カトリック国でありながらプロテスタント国支援
  • イングランド … 国王派と議会派の対立

と、いずれの国もダブルスタンダードの内部問題を抱えています。対スペイン戦を続けつつ、この両国との関係のバランスをとっていくことは、非常にデリケートな作業となります。1635年の蘭仏対スペイン同盟や、1640年に入っての英王室とオランイェ家の婚姻の調整など、アールセンが直に最前線に立って、交渉を成功させています。その経緯を事細かに知らせる、現存している書簡の量だけでもかなり膨大です。フレデリク=ヘンドリクにとって、ホイヘンスやカッツが内政の懐刀とするなら、アールセンが外交の秘密兵器ともいえるでしょう。オランイェ公ウィレム二世と英王女メアリの結婚を現地で見届けたあと、ハーグに帰還し、半年ほどで亡くなっています。

なお、娘のひとりが、ナッサウ伯ユスティヌスの長男ウィレム=マウリッツと結婚しています。ここからもオランイェ家との結びつきの強さを垣間見ることができます。

ソメルスデイク卿コルネリス・ファン・アールセン Cornelis van Aerssen

Aerssen van Sommelsdijck

Adriaen Hanneman (1658) In Wikimedia Commons

  • オランダ軍騎兵連隊長、サン・ミッシェル騎士、ソメルスデイク卿 Heer van Sommelsdijk
  • 生年: 1600 パリ?(仏)
  • 没年: 1662/11/19 ハーグ(蘭)

生涯

次男として生まれたため、祖父や父の政治家としての職務は継がず、軍人となりました。父に輪をかけた、極右ともいえるオランイェ派。ウィレム二世のクーデターについても、ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクと並んで首謀者のひとり。しかしウィレム二世の急逝後、彼らだけでクーデターを続行するには力不足でした。

クーデター未遂事件の翌年に騎士身分を得ていますが、その後についてはあまり書かれていないので、名誉だけあてがわれて体よく政治の世界から追い払われた可能性もあります。それでも、アムステルダムの並居るレヘントたちを凌ぎ、オランダでも最も裕福であるといわれるほどの財を持っていました。

ソメルスデイク卿コルネリス・ファン・アールセン Cornelis van Aerssen

Cornelis van Aerssen (1637-1688)

Attributed to Adriaen Hanneman (c. 1680) In Wikimedia Commons

  • オランダ軍騎兵連隊長、ソメルスデイク卿 Heer van Sommelsdijk
  • 生年: 1637/8/20 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1688/7/19 パラマリボ(スリナム)

生涯

父コルネリスと完全に名前が同じで、やはり軍人です。子供の頃はウィレム二世の宮廷でペイジをしていました。当初は父を継いで騎兵連隊長の地位にありましたが、第一次無総督時代に陸軍はほとんど活躍の場がなかったため、第二次英蘭戦争の「聖ジェイムズ日の海戦(二日間海戦)」ではデ・ロイテル提督やコルネリス・トロンプ提督とともに海軍将校としても参戦しています。オランダ侵略戦争で陸軍将校としての機会がめぐってきますが、ヤン・デ・ウィットとの親交が災いして、ウィレム三世からは信用を得られなかったようです。

どちらかというと、晩年のスリナム総督がもっともキャリアとしては有名。ですが最期はそのスリナムで暗殺されています。