ラレン伯/レンティ侯/ホーホストラーテン伯/レンネンベルフ伯兄弟 Graven van Lalaing

Philip de Lalaing, Count of Hoogstraten, by Hans Liefrinck I (before 1550)

Hans Liefrinck (before 1550) In Wikimedia Commons ホーホストラーテン伯フィリップ・ド・ラレン(アントワーヌ二世とジョルジュの父)

南ネーデルランドの貴族、とくに有力なラレン家、クロイ家、リーニュ家あたりは、十字軍時代に起源を持ち、16世紀にもなると互いに非常に入り組んだ姻戚関係になっています。また、ちょうど言語境界線付近を拠点にしているため、蘭語または仏語どちらで表記するかも非常に悩みます。このサイト内では、現在一般的に呼ばれる呼び名に従って、地名由来の称号と家名由来の姓名が別言語になっている場合もそのまま並列表記で採用しました。称号が蘭語、姓名が仏語になっているものが多いです。

  • ラレン伯シャルル二世ド・ラレン
    • ラレン伯フィリップ二世ド・ラレン
    • レンティ侯エマニュエル=フィリベール・ド・ラレン
  • ホーホストラーテン伯フィリップ・ド・ラレン
    • ホーホストラーテン伯アントワーヌ二世ド・ラレン
    • レンネンベルフ伯ジョルジュ・ド・ラレン

ラレン兄弟は、父(兄)のラレン伯シャルル二世の息子たちですが、母親が違うので異母兄弟にあたります。いずれも当初はカルヴァン派として反乱側で戦っていましたが、パルマ公ファルネーゼの懐柔で国王側に帰参します。

ホーホストラーテン兄弟は、父(弟)のホーホストラーテン伯フィリップの死後、長男のアントワーヌ二世がホーホストラーテン伯を、次男のジョルジュが母方のレンネンベルフ伯を継承しました。彼らの甥(妹の長男)に、南ネーデルランド執政府の外交官、初代リーニュ公ラモラール一世がいます。

ラレン伯フィリップ二世ド・ラレン Philippe II de Lalaing, Graaf van Lalaing

  • 第三代ラレン伯 3e comte de Lalaing、エスコルネ男爵 baron d’Escornaix、エノー州総督 stadhouder van Henegouwen
  • 生年: 1537 ラレン(仏)
  • 没年: 1582/5/24 モンス(白)

生涯

南ネーデルランドのカトリック貴族。当初国王側でしたが、1576年に反乱軍の側で「ヘントの和平」に加わります。その後は連邦共和国軍の総司令官に任じられましたが、1578年のジャンブルーの戦いの敗戦の責任を(本人が参戦していないにも関わらず)問われることになり、翌年パルマ公の説得に従いアラス同盟に調印して国王に忠誠を誓うことになります。

一人娘のマルグリットがベルレーモン伯フローランと結婚したため、ラレン伯の称号はベルレーモン伯に継承されることになります。

リファレンス

レンティ侯エマニュエル=フィリベール・ド・ラレン Emmanuel de Lalaing, Marquis de Renty

  • モンティニ男爵 Baron de Montigny、レンティ侯 Marquis de Renty,、エノー州総督 stadhouder van Henegouwen
  • 生年: 1557/5/5 ヴァランシエンヌ(仏)
  • 没年: 1590/12/27 モンス(白)

生涯

フィリップ二世の異母弟。名前のとおり、サヴォイア侯が名付け親。

1578年のジャンブルーの戦いで兄の代わりに議会軍を率いたのはエマニュエル=フィリベールですが、その敗戦後はカトリックの不平分子を私兵として率いる頭目となりました。これはかつての「乞食党」のカトリックバージョンのようなもので、軍隊というよりは傭兵崩れに近いものです。スペイン軍にもカルヴァン派強硬派にも両方に喧嘩を売っているような状態でしたが、兄同様にパルマ公と和解し、それ以降はパルマ公の右腕の将校の一人として活躍しました。兄の死後はその地位を継いでエノー州総督に任じられています。

リファレンス

ホーホストラーテン伯アントワーヌ二世ド・ラレン Antoine II de Lalaing, Graaf van Hoogstraten

Antoine II de Lalaing

Unknown (16th century) In Wikimedia Commons

  • 第三代ホーホストラーテン伯 Graaf van Hoogstraten
  • 生年: 1533 ホーホストラーテン(白)
  • 没年: 1568/12/11 ジョドワーニュ(白)

生涯

初期の「反乱」貴族の一人。執政アルバ公の「血の法廷」に呼び出されたアントワーヌ二世は、その途中、エグモント伯とホールネ伯が逮捕されたという情報を得ると、出廷せずケルンに逃亡しました。そのためにアルバ公によって法的権利を剥奪され、財産の没収に遭います。それでもアントワーヌ二世は反乱の頭目としてのオランイェ公ウィレムを支援し続け、「オランイェ公の第一次侵攻」にも参加しました。

1568年、ジョドワーニュの戦いで負傷したアントワーヌ二世は一ヵ月半後に怪我がもとで亡くなります。ジョドワーニュの戦いでは、アントワーヌと同じ名で、やはり同じくオランイェ公に付き従い法的保護の剥奪刑を受けているアントン・ファン・ボンベルヘンも戦死しています。ここに挙げた中では、唯一反乱軍としての生涯を全うしました。

なお、十七世紀オランダ画家、ディルクおよびサミュエル・ファン・ホーホストラーテン父子とは何の関係もありません。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen

レンネンベルフ伯ジョルジュ・ド・ラレン George de Lalaing, Graaf van Rennenberg

11 Graaf van Rennenberg

Unknown (1926) In Wikimedia Commons

  • レンネンベルフ伯 Graaf van Rennenberg、フリースラント、フロニンゲン、ドレンテ、オーフェルエイセル州総督 Stadhouder van Friesland, Groningen, Drenthe en Overijssel
  • 生年: 1536 ホーホストラーテン(白)
  • 没年/埋葬地: 1581/7/23 フロニンゲン 聖マルティヌス教会(蘭)

生涯

オランダでは一般に「レンネンベルフ伯」と呼ばれます。

ウィレム一世に信頼されていたレンネンベルフは、1577年、公の推薦で北部諸州の州総督となります。しかしレンネンベルフは、あくまでも「ヘントの和平(1576)」の理念、つまりカトリックの王(スペイン国王フェリペ二世)のもとでの旧教と新教の融和に共感したために反乱に加わっていました。1578年のジャンブルーの戦いを経て、1579年1月、「アラス同盟」と「ユトレヒト同盟」によって、ネーデルランドが南北に分断されてしまったことは決して本意ではありませんでした。また、南部にいるカトリックの親族たちとの関係も影響しているようです。レンネンベルフは自分が州総督である各州毎に調停を試みましたがうまくいかなかったため、カトリックの多いフロニンゲン州だけに絞り、この州ごとスペイン国王側に転向することにしました。1580年3月3日、密かに新執政パルマ公ファルネーゼと通じたレンネンベルフは、フロニンゲンの街でクーデターを強行し、武力でプロテスタント勢力を駆逐しました。

オランダ(反乱諸州)側から見て「レンネンベルフの背信」と呼ばれる事件です。この事件後、やはりカトリックの人物に要職を任せるのは危険であるという判断がされ、カトリックの人物は共和国の要職からはずされていくことになります。

その後レンネンベルフは近隣の街に対して、国王の側に転向するよう、交渉や実力行使で説得を続けました。ちょうどこの頃彼に仕えていたマルティン=シェンク将軍がいくつかの都市を攻略しましたが、レンネンベルフ自身はまもなく病気になり、翌1581年に死去しました。フロニンゲン州総督はスペインの将軍フランシスコ・ベルデューゴが継ぐことになります。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • ADB