「反乱」のヒロインたち

Haarlem Kenau 1573

Romeyn de Hooghe (1690) 「ハールレム攻囲戦 (1573)」 In Wikimedia Commons「乞食万歳」の旗が見えます。

八十年戦争時代の「女性」といえば、隣国イングランドのエリザベス女王、南ネーデルランド執政パルマ公妃やイザベラ王女など、ごく一部の例外を除けば、血縁関係や婚姻関係(誰の娘・誰の妻)など、基本的に副次的な役割でしか語られていません。

そんな中、「反乱」の初期には、自ら立ち上がり勇敢に戦った女性たちが居ました。…とはいえ、このサイト内で紹介している下記の書籍とは、時代も100年くらい前ですし、内容もちょっと違います。

『兵士になった女性たち―近世ヨーロッパにおける異性装の伝統』

この本の中の女性たちは、男と偽って兵士となった人物がほとんどです。もともとそうしないと生きていけない、という不可抗力が動機にあり、異性装自体が法的にも宗教的にも犯罪です。

ここで取り上げるのは、兵士でも男装でもなく、スカートにエプロンをかけた姿で女性として戦った人々です。そして本人たちもそれなりの階級の出であり、犯罪者どころか英雄扱いです。もっとも、あまりジャンヌ・ダルク的なヒロインではありません。どちらかといえば、肝っ玉母ちゃんとかオカンの世界でしょう。

リファレンス

ヘンティは小説。

ケナウ・ハッセラール Kenau Simonsdochter Hasselaer

Kenau Simonsdr Hasselaer Rijksmuseum SK-A-502

Unknown (1590-1609) In Wikimedia Commons

1572-3年 ハールレム攻囲戦 48歳

兄はオランイェ公ウィレム一世の主治医。ケナウはハールレムの造船商と結婚し、未亡人となってからは、自ら材木商も兼ねました。ハールレム攻囲戦の際、「街を占領したスペイン兵が女性をどのように扱うか」を聞き知った女性たち300人を束ね、熱湯や熱した油、焚き木を武器に中世さながらの籠城戦を繰り広げました。銃や槍を恐れず突っ込んでいったなんて逸話もありますが、さすがにこれは疑わしいところです。ハールレム陥落ののち、いったん逃亡していましたが、ハーレム奪還後に街に戻り、商売を続けました。

八十年戦争の「ヒロイン」の最初の女性にして、象徴ともいえる人物。が、ほかのヒロインと比べ、あまりその評判は良くありません。女だてらにかなりあこぎな商売のやりかたをしたのでしょうか。現代オランダ語で「kenau」は「口うるさい女」のこととか。

自ら船に乗り込んでノルウェーに材木の買い付けにいく最中、船が海賊に襲われ、その際に殺されたといわれています。第二次世界大戦後に小説が書かれています。

トレイン・レンブランス Trijn Rembrands

1573年 アルクマール攻囲戦 16歳

当時16歳ながら、男と同じように勇敢に戦ったとされる少女。ケナウ同様、油や焚き木で戦ったようです。のち夫となる織物商とともに、アルバ公ファドリケから故郷アルクマールを守るために戦いました。19世紀にはオペラの題材にもなっています。

夫コルネリスは1592年にアルクマール市参事会員となり、長女もアルクマールの裕福なレヘントと結婚するなど、彼女自身も明らかに資産階級に属しています。なお、夫と自分の墓には、剣と斧のマークを彫らせているそうです。

トレイン・ファン・レームプット Trijn van Leemput

Trijn van Leemput 1650

Unknown (ca. 1650) In Wikimedia Commons

1577年 「ヘントの和平」批准後のユトレヒト 47歳

「ファン」のつく名のとおり、ユトレヒトの名家の出。夫のヤン=ヤーコプは市参事会員とビールギルドの長を兼ねた人物で、オランイェ公ウィレム一世とのパイプもありました。長女がアメルスフォールト市長に嫁いでいます。

ユトレヒト市が「ヘントの和平」を批准し、スペインの駐屯兵が撤退していくと、彼らが住処にしていたカール五世時代のフレーデンベルク城をどうするかという議論が起こりました。将来またスペイン兵がここを占領する危険を避けるため、即刻取り壊すべきという市民側に対して、市当局は当面このままにするという判断を下します。

その際、トレインは女性たちを集め、青いエプロンで作った旗を掲げ、城の前でデモをおこないました。その際、城壁のレンガのひとつをはずしたのをきっかけに、参加していた人々が次々に、斧やつるはしで城壁を打ち壊し始めました。

といって、城がそれなりに解体されるまでには1581年までかかりました。また、基礎だけ残して完全に更地になるまでには、実に1919年までかかったとのことです。

カタリナ・ロセ Catharina Rose

1587年 スライス攻囲戦 年齢不明

パルマ公ファルネーゼに攻囲されたスライスで組織された女性隊の隊長のひとり。今でいう後方部隊の役割で、女性も積極的に防衛戦に参加したようです。途中、イングランド船が救援に訪れ、街の女子供を逃がすことになりましたが、その際に自ら志願して残ったのが、カタリナを含む女性たちです。女たちだけで2つの砦を守ったばかりか、さらに自分たちで砦を建設までしました。

最終的にスライスは開城しますが、彼女等も含め、すべて名誉ある撤退を許されています。19世紀には女流作家によって、カタリナをモデルにした小説も書かれたようです。

マグダレーナ・モーンス Magdalena Moons

Magdalena Moons & Francisco Valdez

Simon Opzoomer (1840-1850) In Wikimedia Commons

1574年 レイデン攻囲戦 33歳

なんだか若干残念な男勝りばかり続いたので、きれいどころも。マグダレーナは文字どおり「女の武器」を用いて、レイデン救援に一役買ったヒロインです。

1574年10月2日の夜、スペイン軍の司令官フランシスコ・バルデスは、1年の長きにわたって攻囲を続けてきたレイデンに、とうとう総攻撃をかけようとしていました。この夜、レイデンの街に家族が籠城していたマグダレーナは、30も年の離れたこの司令官を訪れ、「家族が逃げるため1日だけ待ってくれたら結婚してあげる」と懇願します。これを了承した(要は女一人にほだされた)バルデスは1日だけ総攻撃を延期しましたが、翌10月3日、レイデンの街に反乱軍の船と物資が到着し、街は解放されました。「レイデン解放」は、この後の帰趨を決める重要な出来事のひとつとなったことから、このたった1日の時間稼ぎが「反乱」の明暗を大きく分けたといわれています。

この逸話は当時から有名でしたが、一切の証拠が無いためその真偽は定かではなく、むしろ完全な作り話とされてきました。しかし、2007年になってマグダレーナとバルデスの結婚を記した書面が発見され、彼女の申し出のことはともかく、少なくとも結婚に関しては、一転事実であると証明されました。

ところで、マグダレーナはバルデスの死後も二度結婚していますが、最後の結婚は実に65歳を過ぎてからです。そもそもバルデスに色仕掛けを持ちかけたのも33歳の頃で、当時の基準からいっても到底若さを売りにできる年齢ではなく、余程の美人か相当な自信家だったと思われます。

フィリッペ=クリスティーネ・ド・ラレン Philippe-Christine de Lalaing

Catherine d'Espinoy défendant Tournay en 1581

J.J. Ph Liébert (1864) In Wikimedia Commons

1581年 トゥルネー攻囲戦 23歳

最後に、一般的に求められる理想的な図(?)、若くてキレイなお姫様による英雄的な防衛戦です。

フィリッペ=クリスティーネ・ド・ラレンはラレン伯シャルル二世の末子で、ホーホストラーテン伯アントワーヌ二世・レンネンベルフ伯ジョルジュの兄弟とは従妹、また、ホールネ伯フィリップの姪にもあたる、正真正銘第一級の血筋の生まれです。夫であるエスピノワ公ピエールは当時トゥルネー知事をしていました。この夫の留守中を見計らって、パルマ公ファルネーゼはトゥルネーの街を攻囲しました。

街の防衛は23歳のクリスティーネの手に委ねられました。彼女は毎朝城壁の上に登って兵を鼓舞し、自ら負傷するまで前線で剣を振るいました。夫のピエールが取って返してきて救援を試みますが、相手はパルマ公の大軍のためまるで歯が立たず、作戦は失敗してしまいます。それでも街は最終的に2ヶ月弱持ちこたえました。開城交渉は平和裏に進み、クリスティーネは彼女を讃える大歓声の中アントウェルペンへ亡命しました。

開城後の略奪によって彼女や街の教会の宝石類の大半は兵たちに摂取されてしまいました。パルマ公はこれを咎めて宝石類を買い戻し、勇敢な籠城への敬意のしるしとして、使者を差し向けてクリスティーネに返却しました。しかしクリスティーネは、翌年には若くしてアントウェルペンで亡くなってしまっています。