穏健派・アルミニウスとレモンストラント派

D'Arminiaensche dreckwaghen (titel op object) Le Char Dordure D'Arminies (titel op object), RP-P-OB-80.201

アルミニウス派のハーグ退去 (1618) In Wikimedia Commons

1610年の休戦期に激しくなったオランダ国内の宗教論争において、

  • 穏健派
  • アルミニウス派
  • レモンストラント派

と呼ばれる側の牧師や神学者です。

リファレンス

ヤコブス・アルミニウス Jacobus Arminius

James Arminius 2

David Bailly (circa 1620) In Wikimedia Commons

  • 神学者、レイデン大学教授
  • 生年: 1560/10/10 アウデワーテル(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1609/10/19 レイデン(蘭)

生涯

準備中です。

ヨハネス・アイテンボハールト Johannes Uytenbogaert

Johannes Wtenbogaert (1557-1644). Remonstrants predikant te 's-Gravenhage Rijksmuseum SK-C-1474

Jacob Adriaensz Backer (1638) In Wikimedia Commons

  • アルミニウス派牧師、オランイェ家宮廷牧師
  • 生年: 1557/2/11 ユトレヒト(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1644/9/4 ハーグ(蘭)

生涯

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コンラート・フォルスティウス Conrad Vorstius

Conrad Vorstius (1569-1622)

Jacob Marci / Justum a Colster (1614) In Wikimedia Commons

  • アルミニウス派牧師、レイデン大学教授
  • 生年: 1569/7/19 ケルン(独)
  • 没年/埋葬地: 1622/9/29 テニング(独)

生涯

カトリックに生まれるものの、カルヴァン派に改宗してテオドール・ド・ベーズ(カルヴァンの後継者)の教育を受けます。その推薦で十数年間、ベントハイム伯領での神学教師の職を得ていました。

1610年、アルミニウスの死に伴いその後任としてレイデン大学に招かれます。彼はアルミニウスと同意見とみなされていて、かつ、若年期にカルヴァン派の厳格な教義による教育を受けていたとして、当初はどちらの流派からも歓迎されていました。しかし、「国家は教会に干渉すべきでない」と絶対王政を批判する主張と、異端とされるソッツィーニ派への傾倒が疑われたことから、とくに英国王ジェームズ一世(ちょうど欽定訳聖書を出版した直後)の逆鱗に触れ、国教化を志向する厳格派からも激しい反発を受けました。そのため、フォルスティウスの存在が、穏健派と厳格派の対立を激化させた原因ともなりました。

辞任に追い込まれたフォルスティウスはレイデンを逃れて国内に潜伏し、ドルトレヒト宗教会議で異端と決されてからは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公による庇護の申し出を受け、亡命した直後に亡くなっています。

ヘンドリク・スラティウス Hendrick Danielsz Slatius

Hendrick Danielsz Slatius door Claes Jansz Visscher

Claes Jansz. Visscher (1623) In Wikimedia Commons

  • アルミニウス派牧師
  • 生年: 1585 オーステルラント(蘭)
  • 没年: 1623/5/5 ハーグ(蘭)

生涯

ブレイスヴェイクの牧師でアルミニウス派。ドルトレヒト公会議によって公職から追放され、ナッサウ伯マウリッツに抵抗したセンセーショナルなパンフレットを書きました。1623年、オルデンバルネフェルトの息子たちと共にマウリッツの暗殺計画を立てますが、仲間の密告により起訴されます。いちどドレンテにまで逃亡しましたがそこで逮捕され、ハーグで斬首されました。

シモン・エピスコピウス Simon Episcopius

Simon Episcopius, by Anonymous

Unknown (1743) In Wikimedia Commons

  • アルミニウス派牧師
  • 生年: 1583/1/8 アムステルダム(蘭)
  • 没年: 1643/4/4 アムステルダム(蘭)

生涯

スラティウス同様、ブレイスヴェイクの牧師を務めたこともあるアルミニウス派。レイデン大学神学教授。ドルトレヒト公会議では13人のアルミニウス派の代表として熱弁を振るいましたが、その後彼を含む全員が会議から閉め出されてしまい、国外への亡命を余儀なくされてしまいます。1619年にはヨハネス・アイテンボハールトの亡命先でもあるアントウェルペンへ、後フランスへ亡命。1621年以降、『アルミニウス派信仰告白』等、神学の著作も書いています。マウリッツの死後共和国に帰国し、ロッテルダムでアルミニウス派の説教を再開しました。1634年以降は、故郷アムステルダムでアルミニウス派牧師養成所講師となっています。