ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト Johan Wolfert van Brederode

Portrait of an officer, possibly Johan Wolfert van Brederode or Walraven IV van Brederode by Jan van Ravesteyn and workshop Nationaal Militair Museum MH438

School van Jan van Ravesteyn (1611-1621) In Wikimedia Commons

  • 第十六代ブレーデローデ卿 Heer van Brederode, Vianen, Noordeloos en Ameide、スヘルトヘンボス知事 Gouverneur van ‘s-Hertogenbosch (1630-1655)、エレファント騎士(1649/5)
  • 生年: 1599/7/12 フィアネン(蘭)
  • 没年: 1655/9/3 ピーテルスヘム(蘭)

生涯

ヘンドリクの四代後のブレーデローデ本家の領主ですが、途中何度か傍流に継承されているため、直系ではありません。先々代の伯父や先代である兄が政治家であり、アルミニウス派で議会寄りだったのに反して、ヨハン=ヴォルフェルトは軍人で、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の娘アンナ=ヨハンナと一度目の結婚を、オランイェ公妃アマーリアの妹ルドヴィカ=クリスティーナと二度目の結婚をしており、親オランイェ派の中でもトップを張るひとりです。

義兄にあたるオランイェ公フレデリク=ヘンドリクのもとでの軍事キャリアは、1623年に自らの名を冠した「ブレーデローデ連隊」の連隊長から始まり、1635年に砲兵のトップを経て、最終的には1642年以降元帥ランクにまでなっています。

外交官として働いたこともあります。オランイェ公ウィレム二世とイングランド王女メアリの縁組に際して、大使アールセン等とともに4人の外交団を組んで、イングランドで交渉をおこないました。あくまでこの外交団は、オランダ共和国(連邦議会)に帰属するものではなく、オランイェ家の私的外交団です。

なお、フレデリク=ヘンドリクから自分の名を冠した帆船の建造を認められ、旗艦「ブレーデローデ」はウィッテ・デ・ウィット提督やトロンプ提督などに指揮されて、英蘭戦争に投入されました。

これほどオランイェ派に傾いていたにも関わらず、ホラント州法律顧問のヤン・デ・ウィットとは個人的に親友の間柄であり、第一次無州総督時代初期には過激なオランイェ派と議会派の緩衝役となりました。1655年にヨハン=ヴォルフェルトが死亡したことにより、オランイェ派と議会派の対立が高まっていくことになります。

子女はたくさんいましたが、ほとんどが女子。次男ヴォルフェルトが嗣子なく亡くなったため、そこでブレーデローデ家は断絶してしまいます。また、1573年のハールレム攻囲戦の際に火がかけられたブレーデローデ城は、17世紀にはさらに砂に埋まって廃墟となり、19世紀になってようやく再建されます。この再建後のブレーデローデ城が、オランダの「史跡・名勝 Rijksmonument」(意味的に「文化財」や「遺産」よりはこちらのほうが近いでしょうか…)の栄えある第一号となります。

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