クレンボルフ伯父子(フロリス一世/フロリス二世) Floris I/II van Pallandt, Graaf van Culemborg

Palant Siebmacher030 - Freiherren

Siebmachers Wappenbuch (1605) Culemborg In Wikimedia Commons

もとはカトリック信仰を持ちながらも「反乱」の中心人物となり、共和国派であり続けた父子。男性による「クレンボルフ伯」の単独タイトルはこの2人、初代と第二代だけで、のちヴァルデック伯が継ぐことになります。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen” Floris I
  • University Leiden, “Personen” Floris II

クレンボルフ伯フロリス一世・ファン・パラント Floris I van Pallandt, Graaf van Culemborg

Floris van Pallandt

Buys (1750-1780) In Wikimedia Commons

  • 初代クレンボルフ伯 1e Graaf van Culemborg
  • 生年: 1539/7/25 ?(蘭)
  • 没年: 1598/9/29 クレンボルフ(蘭)

生涯

父母を早く亡くし、伯母夫婦に育てられます。伯母の死後、その領地であったクレンボルフを継ぐとともに、カール五世によって「クレンボルフ伯」の称号を得ました。

1566年、ネーデルランドの下級貴族たちが執政のパルマ公妃マルガレータに『請願』をおこなった際、側近のベルレーモン伯が彼らを侮って言った言葉「乞食の群れ」は、その後、この請願者たちによって自嘲的な自称「乞食党」として使われます。この「乞食党」の立ち上げの場所となったのがクレンボルフ伯の屋敷です。そのため、アルバ公の「血の法廷」が始まると、フロリス一世のこの屋敷は破壊され、城は占拠されてしまいました。フロリス一世はオランイェ公ウィレム一世を支持して、その侵攻にも付き従っています。

アルバ公の「血の法廷」に呼び出されながら断罪されず、1576年の「ヘントの和平」後には没収されていた財産の多くを回復するなど、幸運にも恵まれています。また人望もあり、1578年と1590年にヘルデルラントの州総督職を打診されていますが、それぞれナッサウ伯ヤン六世、ナッサウ伯マウリッツを推薦し、自分はあくまで裏方に徹しました。晩年は引退して悠々自適の生活を送ったようです。

クレンボルフ伯フロリス二世・ファン・パラント Floris II van Pallandt, Graaf van Culemborg

Floris van Pallandt II - Culemborg - 20051716 - RCE

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • 第二代クレンボルフ伯 2e Graaf van Culemborg
  • 生年: 1578/5/28 クレンボルフ(蘭)
  • 没年: 1639/6/4 クレンボルフ(蘭)

生涯

フロリス一世の長男。1601年にファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世の末娘カタリナと結婚しているので、ナッサウ伯たちの従妹の配偶者ということになり、その縁もあってかよくナッサウ伯たちと一緒に絵画に納まっています。(クレンボルフ伯の紋章は冒頭の地図にもあるように黄色地に赤。そのためいつも赤に金模様の派手なマントを着けているのですぐにわかります)。父が築いたオランイェ家との良好な関係を維持することに務めたようです。母親にカトリックとして育てられましたが、のちにはカルヴァン派の教授にもなっています。

若年期はレイデン大学で学び、一時期グロティウスやナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクの先輩でもありました。卒業後グランドツアーの後は領地経営に従事していましたが、政治家のオルデンバルネフェルトを尊敬し、数年間文通をしていました。そのことが1617年以降のナッサウ伯マウリッツのクーデターの時期に連邦議会の急進派によって取り沙汰され、ヘルデルラントの法廷に呼び出されます。しかし、ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールらの仲裁で事なきを得ました。この時期、同様の揉め事を避けるためにデンマーク大使に任じられています。これが意外に適任だったようで、以降、国事や外交に力を発揮していくことになります。

とくにデンマーク国王クリスチャン四世からの信頼は厚く、三十年戦争期、デンマーク・イングランド・オランダで皇帝フェルディナント二世に対抗する提案をおこなっています。マウリッツ死後もその弟のフレデリク=ヘンドリクに重用され、その意を汲んで早いうちからフランスに接近しました。のち1635年の仏蘭同盟の締結にも尽力しました。

性格は温厚で寛容。自領でイエズス会士の布教も許可していました。父親同様人望があり、領民にも慕われていたようです。