オルデンバルネフェルトの妻と娘婿たち

Van der Mijle wapen

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法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの妻と娘婿たち、血のつながっていない家族です。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • Kikkert, “Maurits”

マリア・ファン・ユトレヒト Maria van Utrecht

Maria van Utrecht by Paulus Moreelse - 1615

Paulus Moreelse (1615) In Wikimedia Commons

  • オルデンバルネフェルトの妻
  • 生年: 1551 ローデンレイス?(蘭)
  • 没年: 1629/3/19 アメルスフォールト(蘭)

生涯

オルデンバルネフェルトの妻。庶子として生まれ、デルフトの裕福な伯父2人のもとで育ち、その財産を相続しました。1575年に結婚し、2人の息子と2人の娘いずれも長じています。しかし彼女のこの出自が事ある毎に取り沙汰されたこともあり、オルデンバルネフェルトとの夫婦仲はあまり良くなかったようです。

それでも、1618年、夫が反逆罪で投獄されると、2人の息子たちや2人の義理の息子たちを使って、夫を救うべく各方面に取り成しのため奔走しました。オルデンバルネフェルトに死刑判決が下り、翌日の執行が取り決められた1619年5月12日の夜、夫からは自らの無実を訴えた短い手紙が届きました。唯一恩赦の権限を持つオランイェ公マウリッツに恩赦を請願しに行こうと訴える息子たちを、それでは有罪を認めることになってしまうと言ってマリアは制します。ところが翌日の処刑後、せめて遺体を家族で葬りたいという願いも却下されてしまいました。オルデンバルネフェルトの葬儀はホラント州の預かりとなり、家族とはまったく関係のないところでおこなわれました。

さらに処刑から2日後、オルデンバルネフェルトの財産の没収が連邦議会で決定されました。これらのうちごく一部だけが1622年、マリアの名で回復されることになります。マリアはハーグの屋敷を出て、末息子のウィレムとともにアメルスフォールトの領地へ隠遁しました。

しかし、マリアの2人の息子たちは、オランイェ公マウリッツが父の処刑の首謀者だとして恨みを募らせていました。1623年、彼らは徒党を組んでマウリッツの暗殺を企てますが、これは事前に情報が洩れて(婿のファン・デル=メイレが密告したとの説もあります)未遂に終わってしまいました。ここで長男のレイニールが捕らえられ、反逆罪で死刑判決が下されます。マリアとレイニールの嫁のアンナ・ウェイセン、娘のヤコバ=フランシーナは3人でマウリッツのもとに押しかけ、それぞれ息子・夫・父親の助命嘆願をします。マリアに向かって、「4年前、夫の命乞いはしなかったのに息子の命乞いはするのか」と非難したマウリッツに、マリアは「夫は無罪でした、けれど息子は有罪なのです」と台詞を返したと伝えられています。

リファレンス

コルネリス・ファン・デル=メイレ Cornelis van der Mijle

Portret van Cornelis van der Myle, hoogleraar te Leiden BN 1017, PK-P-100.297

Unknown (1608?) In Wikimedia Commons

  • ドゥベルダム卿 Heer van Dubbeldam、ヴェネツィア大使、フランス大使
  • 生年: 1570 ハールレム(蘭)
  • 没年: 1642/11/12 ハーグ(蘭)

生涯

オルデンバルネフェルトの娘マリアの婿。父アドリアンはウィレム沈黙公の相談役、自身はナッサウ伯マウリッツの相談役を務めました。ヴェネツィアとパリで共和国大使の任につき、その経歴からもファン・アールセンのライバルです。オルデンバルネフェルトの処刑後しばらく自宅軟禁されたあと国外追放となりますが、マウリッツの死後に帰国します。かつて住んでいた屋敷には、亡命中のプファルツ選帝侯フリードリヒ五世が住んでいました。ファン・デル=メイレは1625年にこの屋敷の隣を買い取り、妻のマリアが選帝侯妃エリザベス・ステュアートの侍女を務めるなど、選帝侯夫妻とも親交を結びます。1632年連邦会議に議席を得ました。おそらくこの頃、購入等でドルトレヒト近郊の領地を得、ドゥベルダム卿と称したようです。

Entree Paleis Kneuterdijk

クヌーテルデイク宮殿のエントランス In Wikimedia Commons

ハーグのビネンホフの斜向かい一帯がクヌーテルデイク。17世紀当時、政治家など有力者の屋敷がたくさんありました。22番地がもともとファン・デル=メイレ夫妻が住んでいて、選帝侯一家に譲られたもの。帰国後のファン・デル=メイレ夫妻は、かつて義父オルデンバルネフェルトの屋敷だった2つ隣の24番地に転居しました。上記写真は20番地の入口部分。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • BWN
  • NNBW

レイナウト・ファン・ブレーデローデ Reinoud van Brederode

Reinoud van Brederode

フェーンハイゼンにある墓標 In Wikimedia Commons

  • フェーンハイゼン卿 Heer van Veenhuizen、ラクヴェレ男爵 Baron van Wezenberg
  • 生年: 1567 ハールレム(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1633/1/7 ハーグ/フェーンハイゼン(蘭)

生涯

「海乞食」ランスロットの息子。1597年に法律顧問オルデンバルネフェルトの娘ヘールトライトと結婚し、その後すぐ死別したものの、オルデンバルネフェルトの婿のひとりとして権勢を強めていくことになります。ホラント州およびフランス国王から騎士に任ぜられ、1602年には、ホラント・ゼーラント州最高裁判所の裁判長にまで上り詰めます。さらに1615年にはスウェーデン・ロシア大使となり、その時の功で、スウェーデン国王グスタフ二世アドルフからラクヴェレ男爵位を授けられています。

1617年のナッサウ伯マウリッツのクーデターにより舅であるオルデンバルネフェルトが逮捕されると、レイナウトは何度か舅の脱獄を試みますが失敗します。オルデンバルネフェルトの処刑以降、レイナウトも失脚の憂き目に遭ったと思われ、これ以降は詳しく伝わっていません。1623年のマウリッツ襲撃のメンバーにも加わっていたとされますが、いったん逃げおおせて、マウリッツの死後ハーグに戻ってきたと思われます。

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