「海乞食」の指導者たち

Het ontvangst van Willem van Oranje en de Watergeuzen door burgemeester Van der Werf en het Leidse stadsbestuur

Antonis Aloisius Emanuël van Bedaff (1787-1829) レイデン市長と参事会に歓迎されるウィレム沈黙公と海乞食たち(歴史画) In Wikimedia Commons

アルバ公の「血の法廷」を逃れるため、地下に潜った活動家たちのうち、海を拠点にした「海乞食」は下級貴族がリーダーを務めていました。といっても当初はそれぞればらばらに私掠を繰り返す海賊に過ぎず、1572年のデン=ブリール占領がなければ、ならず者として処分されていく一方だったでしょう。

このデン=ブリール「以降」に「海乞食」を名乗った者も多いですが、4年後のジーリクゼーの戦いを契機に、早くも消えていってしまいます。戦死したり、逆に要職に就いたため現場を離れた場合もあります。

また、反乱初期の指導者たち同様、ほとんどが1580年代までに亡くなっているか、または一線から退いています。これも、1590年以降のオランダの軍制改革を進めた遠因となると思われます。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • ADB” Lumey
  • NNBW” Bloys
  • ADB” Sonoy
  • Wikipedia (nl) Adriaen van Swieten
  • University Leiden, “Personen” Boisot
  • Motley, “Rise”

ウィレム二世ファン・デル=マルク=ルーメイ Willem II van der Marck Lumey

Emanuel van Meteren Historie ppn 051504510 MG 8701 Wilhem van der Marck

Simeon Ruytinck (1614) In Wikimedia Commons

  • ルーメイ卿 Heer van Lumey
  • 生年: 1542 ルンメン(白)
  • 没年/埋葬地: 1578/5/1 モン=サン=マルタン/アンギャン(白)

生涯

フランス語読みで「ド・ラ=マルク=ルンメン」と書かれることもあります。ブレーデローデ兄弟の甥。

「海乞食」の中心的指導者で、1572年のデン=ブリール占領で有名になりました。これを期に反乱軍はその支配地域を広げていくことになるわけですが、各地で掠奪や殺人を繰り返すルーメイのやり方は、次第に反乱指導部に煙たがられていくことになります。デルフトでは オランイェ公ウィレム一世の友人を殺した挙句に脱獄して逃げ出し、ホルクムでは19人ものカトリックの聖職者を裁判無しに絞首刑にしました。

1574年にホラント議会とウィレム一世はルーメイを追放処分にします。故郷のリエージュ司教領でカトリックに改宗すると、ルーメイはスペイン側のレンネンベルク伯を訪ね、かつてカトリックの聖職者に犯した罪の弁明をしました。その7日後に死亡。犬に噛まれて死んだとも、毒殺ともいわれていますが、それがホラント・スペインどちらの側の仕業かはわかりません。

ブロイス・ファン・トレスロング卿ウィレム Willem Bloys van Treslong

Portret van de zeeofficier Willem Bloys van Treslong, RP-P-1898-A-20672

Johannes (1559-1585) In Wikimedia Commons

  • フォールネ代官 baljuw van Voorne
  • 生年: 1529頃 デン=ブリール(蘭)
  • 没年: 1594/7/17 レイデン(蘭)

生涯

海乞食のリーダーの一人。始めはオランイェ公の第一次侵攻、ヘイリヘルレーの戦いに加わっています。その後海に出、ウィレム一世から最初に私掠許可状を入手し、オランイェ公の旗を掲げて海賊行為を繰り返しました。デン=ブリール占領まではファン・デル=マルクと行動を共にしていましたが、ファン・デル=マルクがその粗暴さから急激に排除されていったのに反して、ファン・トレスロングはゼーラント・ホラントの提督となっているので、占領「後」の両者の行動には違いがあったのかもしれません。

ファン・トレスロングの名前はそれからしばらく聞かれませんが、1585年、アントウェルペン攻囲戦への救援策について、州議会と意見の相違があり、しばらく投獄されてしまいました。釈放後は父を継いで代官となり、職務を全うしたようです。

ディーデリク・ソノイ Diederik Sonoy

Arolsen Klebeband 01 559 4

Unknown (17th century?) In Wikimedia Commons

  • エンクハイゼン市長 burgemeester van Enkhuizen
  • 生年: 1529頃 カルカー(独)
  • 没年: 1597/6/2 ピーテルブーレン(蘭)

生涯

オランイェ公ウィレムがディレンブルクに亡命した後、そのネーデルランドとの橋渡し役となり、自ら資金や書簡を持って往復を繰り返しました。1572年にホラント州沿岸各地で海乞食が占領を成功させると、ウィレムによりエンクハイゼンの市長を任じられます。その後、アルクマール攻囲戦やジーリクゼー攻囲戦に、海乞食として海から参加しました。

アルクマール攻囲戦ののち、ソノイは当地のフランシスコ会士たちを逮捕し、エンクハイゼンに連行しました。そこでカルヴァン派への改宗を強要し、拒否されると彼ら全員を絞首刑としました。「アルクマールの殉教」と呼ばれる出来事です。自分の娘とウィレムの庶子ユスティヌスの縁談を断った、というエピソードが『オラニエ公ウィレム』にも紹介されていましたが、かなり頑固な性格ではあったようです。

ウィレムの暗殺後は、イングランドから派遣されてきた総督レスター伯に近づき、法律顧問オルデンバルネフェルトらホラント州との対立を深めました。レスター伯失脚に伴ってソノイも州議会内での影響力を失います。その後は娘婿の領地に隠遁しましたが、州から年金も出ていたうえ、若い娘と再婚したり、多分に恵まれた老後だったようです。

ルイ・ボワソ Louis Boisot

Jonkheer Lodewijk de Boisot (Cornelis Visscher, 1649)

Cornelis Visscher (II) (1649) In Wikimedia Commons

  • ルアール卿 Heer van Ruart
  • 生年: 1530頃 ブリュッセル(白)
  • 没年: 1576/5/27 オーステルスヘルデ(蘭)

生涯

ボワソもソノイ同様、当初オランイェ公ウィレムを支援していたのは海でではありませんでした。いったん亡命したウィレムをディレンブルクに訪ね、協力を約束し、ネーデルランドにおけるウィレムの代理人として活躍します。とくに兵の徴募をおこない、ウィレムの第二次侵攻にも参加しました。フランスのユグノーの助力を得るための役割を与えられましたが、ちょうど「サン・バルテルミーの夜」に遭遇してしまいます。

その後英国に渡って船を調達し、私掠船に乗り始めたのは、つまり「海乞食」化したのはこれ以降です。ハールレム攻囲戦の海からの援軍や、フリシンゲンの戦いなどに参加しました。1574年、ファン・デル=マルクが失脚すると、ウィレム一世により、ゼーラントおよびホラントの提督に任じられます。さらにその年、レイデン解放軍の船長も務めました。

1576年、半年以上続けられていたジーリクゼー攻囲戦に、やはり海からの援軍として向かいますが、スペイン海軍の封鎖解除に失敗したうえ、本人も溺死しました。

アドリアーン・ファン・スヴィーテン Adriaen van Swieten

Adriaen van Swieten

Hendrick Goltzius (1579) In Wikimedia Commons

  • ヨンクヘール Jonkheer
  • 生年: 1532 レイデン(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1584 ハウダ/聖ヤンス教会(蘭)

生涯

下級貴族。1568年のウィレム一世の亡命時からウィレムに忠誠を誓い、いったんドイツのエムデンに逃れたあと、海乞食として活動を始めます。1572年のデン=ブリール、1575年のアウデワーテル攻囲戦などに、配下の海賊を連れて参加しました。また、ハウダの街に引き込み役を配置し、奇襲で街を占領もしています。

その後はハウダで代官の職に就いたようです。そのままハウダで亡くなっています。