マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの庶子たち

Esaias van de Velde I - Courtly Procession before Abstpoel Castle - 83.122 - Minneapolis Institute of Arts

Esaias van de Velde I (1619) In Wikimedia Commons

若年期から非婚を公言し、実際そのとおりに弟フレデリク=ヘンドリクにオランイェ公の家督を譲ったマウリッツですが、女性関係は派手で、とくに1600年以降には6人の女性に私生児を8人産ませています。(もちろん1590年代から、子供こそ産まなかったものの被害に遭った女性はたくさん居ます)。愛人と呼ばれる女性とも、長くても関係が続いたのはせいぜい5年が関の山で、次々に手を出してはポイ捨てしたり金で解決をしていたようです。面白いのは、相手のほとんどの女性が身分の低い女性で、マウリッツの女性関係を常に批判していたウィレム=ローデウェイクやルイーズ・ド・コリニーの苦言も、徐々に「愛人にするならせめてもうちょっと釣り合いのとれる身分の女性を」や「頼むから娼婦だけはやめてくれ」などに変わっていったとのことです。認知は気前よく(?)おこなっていたようですが、その母親同様に子供の放置もはなはだしく、死の直前に遺言で多少の遺産を分配し、教育その他はすべて秘書に丸投げしました。

弟のフレデリク=ヘンドリクも女好きな点は兄によく似ていましたが、さすがフランスかぶれというか、たくさんの女性と恋愛の駆け引きを楽しんでいた節が強いようです。1610年以降になると、母親や親戚から結婚話がたくさん持ち込まれましたが、すべてうまく逃げ回っていました。結婚の2年ほど前に愛人に私生児をひとり産ませています。(ほかにも居たようですが、認知はこの1人だけです)。時期からいってもアマーリアと二股(以上?)をかけていたと思われますが、結婚後は全く浮いた噂はなくなります。

ここではとりあえず4名を挙げておきます。「オランイェ=ナッサウ家家系図」も参照ください。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Ditzhuyzen, “Woordenboek”

ウィレム・ファン・ナッサウ=ラレック Willem van Nassau-LaLecq

Willem van Nassau, Heer van de Leck

Unknown (1628) In Wikimedia Commons

  • 母親: マルハレータ・ファン・メヘレン Margaretha van Mechelen
  • 生年: 1601(蘭)
  • 没年: 1627/8/18 フロール(蘭)

生涯

マウリッツの庶子。従兄のウィレム=ローデウェイクから名前をもらいました。母親のマルハレータは、ナッサウ家の祖先(ウィレム沈黙公の曽祖父)の庶子の血筋につながる人物ですが、父親はリールの市参事をつとめていた身分の低い貴族。ウィレムは生まれてすぐに認知され、ナッサウ=ラレックの名を名乗ることを許されました。十二年休戦が明ける頃に19歳でオランダ軍に入り、叔父フレデリク=ヘンドリクのもと24歳で海軍中将として、イングランド軍との合同艦隊を指揮しました。1627年、フレデリク=ヘンドリクとともにフロール攻囲戦に参戦し、この戦いの最中に弾丸を受け戦死しました。死亡する4ヶ月ほど前に結婚したばかりだったため嫡子はいませんでしたが、19歳の頃に庶子がひとり生まれています。

ローデウェイク・ファン・ナッサウ=ベフェルウェールト Lodewijk van Nassau-Beverweerd

Lous of Nassau, Lord of den Lek and Beverweerd

Unknown (1650) In Wikimedia Commons

  • 母親: マルハレータ・ファン・メヘレン Margaretha van Mechelen
  • 生年: 1602(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1665/2/28 ハーグ(蘭)/ハーグ・聖ヤコブ教会

生涯

マウリッツの庶子で上記ウィレムの弟。やはりマウリッツの従兄のウィレム=ローデウェイクにちなんで名づけられました。マウリッツの死後、若干の領地を相続し、兄ウィレムが戦死したのちはその遺産も受け継いでいます。同じく叔父フレデリク=ヘンドリクのもとで軍事経験を積み、1632年から連隊長、1643年には少将にまで出世しています。1641年には叔父の代理人としてフランスに派遣されています。(英王室とオランイェ家との婚姻を仏王室に弁解する、という役割です)。フレデリク=ヘンドリクからの信頼も厚く、1630年にその計らいもあり、ホールネ伯の娘イザベラと逆玉婚をしています。

が、フレデリク=ヘンドリクとウィレム二世が相次いで亡くなると、ヤン・デ・ウィットら議会派に接近し、とくにウィレム三世の養育について、オランイェ家とは一線を引くことになりました。1658年からスヘルトヘンボス知事、1660年からはイングランド大使となっています。

カーレル・ファン・ナッサウ Carel van Nassau

  • 母親: ヨプヘン・ファン・アルペン Jobghen van Alphen
  • 生年: 1612 デルフト(蘭)
  • 没年: 1637/3/28 ポルト・カルヴォ(ブラジル)

生涯

マウリッツの庶子の母親は、唯一マルハレータ・ファン・メヘレンが貴族(それでも身分は低い)であり、ほかは全て庶民です。そのため、領地や財産の分配を伴うような認知は、マルハレータの子以外にはされていません。カーレルも同様で、マウリッツの死後、フレデリク=ヘンドリクの命によりあらためて貴族としての教育がなされ、レイデン大学で学び、1630年にオランダ軍に入隊しました。同年に結婚もしています。1637年にブラジル総督のヨハン=マウリッツとともにブラジルへ行き戦死。遺言で、遺産相続者は母親とその再婚相手である居酒屋の店主とされました。

フレデリク・ファン・ナッサウ=ザイレステイン Frederik van Nassau-Zuylestein

Portrait of Frederick of Nassau-Zuylestein attributed to Jan de Baan

Jan de Baan (1670-1680) In Wikimedia Commons

  • 母親: マルハレータ=カタリナ・ブラインス Margaretha Catharina Bruyns
  • 生年: 1624(蘭)
  • 没年: 1672/10/12 ウールデン(蘭)

生涯

フレデリク=ヘンドリクの庶子で、母親マルハレータ=カタリナはエメリヒ市長の娘。詳細はわからないものの、父親フレデリク=ヘンドリクとアマーリアの結婚式のまさにその日に、この母親が亡くなっています。16歳にオランダ軍に入ると同時に歩兵連隊長の地位を与えられ、また、ナッサウ=ザイレステインを名乗ることを許されました。生涯軍人として過ごし、異母弟のウィレム二世がクーデターを計画した際も、フリースラント州総督ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクとともに支援をおこなっています。

ウィレム二世が急死した後、甥ウィレム三世が8歳になるとその養育係となり、ウィレム三世からは父親同様に慕われました。しかしまもなくデ=ウィット等議会派により交代させられます。1672年、フランスのオランダ侵略戦争に際して、歩兵大将に任命されるものの、クライッピンの戦いで戦死。デ=ウィット兄弟の虐殺は彼が裏で糸を引いていた、という噂のため、その遺体には戦死には不自然なほどの傷がついていたそうです。

息子ウィレム(1649-1708:  ウィレム三世の1歳年上の従兄にあたります)はのちにウィレム三世の名誉革命を助け、イングランド国王となったウィレム三世よりロックフォード伯等複数の称号を得ました。

『イギリス革命史』にも登場。彼について日本語で読めるのは驚きでした。