ヤン・ファン・ナッサウ(八世/小ヤン)Jan VIII van Nassau-Siegen, ‘Jan de Jonge’

Jan VIII van Nassau-Siegen 1583-1638

Workshop of Jan Antonisz. van Ravesteyn (1614-33) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graf von Nassau-Siegen、皇帝軍元帥(1629) Kaiserlichen Feldmarschall、モンテ=カバージョ侯(1614) Marquess de Monte-Caballo、ロンセ男爵(1629) Baron de Renaix
  • 生年: 1583/9/29 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1638/7/27 ロンセ(白)/ブリュッセル・イエズス会教会(白)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世ミデルステ(中ヤン)の次男。カッセルやジュネーヴで教育を受け、他の兄弟たち同様に、若年期はオランダ軍将校として従軍しました。が、祖父ヤン六世時代から厳格なカルヴァン派として知られていたナッサウ一族の中で育ちながら、1608年頃から秘密裏にカトリックに傾倒し、1613年に公然と改宗を表明したうえで、皇帝マティアスの顧問団の一員となりました。なお、翌年サヴォイア公カルロ一世エマヌエーレの軍に将軍として迎えられた際(1614-15)には、サヴォイア公国の騎士団・受胎告知騎士(カトリックの軍人に限る)に序せられています。

1603年、ジュネーヴで教育が修了したあと、グランド=ツアー(若い貴族の卒業旅行のようなもので、ヨーロッパ各国を外遊します)の最中、当時スペイン領だったナポリでいきなり捕らえられ軟禁されてしまいます。どうやらナッサウ伯マウリッツの「弟(同世代のフレデリク=ヘンドリク)」だと誤解された、というのが理由で、しばらくして教皇クレメンス八世の仲介で釈放されました。よりによって同じ時期、当のフレデリク=ヘンドリクとヤンの実兄ハンス=エルンストは、イングランドのジェームズ一世の即位式という、外交上もっとも華やかな場所への参列機会を得ていました。叔父のエルンスト=カシミールは「彼(ヤン八世)には申し訳ないことをした」と、その父のヤン七世に書き送っていることから、一族内でも何か行き違いがあったのかもしれません。

ヤン八世はこの後すぐの1604年から皇帝の募集した義勇軍に参加しハンガリーでトルコ軍と戦っていることから、他の兄弟とは軍人としてのキャリアもまったく違っており、多感な時期にカトリックにより多く触れることのできる環境にあったといえます。オランダ軍に騎兵中隊長として合流したのもちょうど休戦直前の1609年3月で、若年期に一族の人々と軍隊暮らしをした経験もほぼ無かったといって良いでしょう。

サヴォイアの次にフランスで2年間大隊長を勤めた後、1617年に兄のハンス=エルンストが戦地で病死すると、ヤン八世は皇帝マティアスの支援をとりつけ、次男である自分がナッサウ=ジーゲン伯の後継者だと主張しました。父ヤン七世は、先代六世からの継承の際の「カトリックに改宗した者は継承権を失う」という条項を楯に息子の継承権を退け、同年末にヤン八世は伯領の改革派宗教に手を出さないという書面に署名させられます。

管理人も以前は完全に勘違いをしていたのですが、ヤン八世は改宗後すぐに家を捨てて出奔した、というわけではありません。ヤン八世がサヴォイアに向かったのは、もちろん本人の志願もありましたが、連邦議会の決定に従いオランダ軍の中隊を率いてのことです。当時のサヴォイアは近隣のフランスやスペイン領にしょっちゅうちょっかいを出していて、このときちょうどオランダにも援軍を要請していました。このことからもヤン八世については、マティアスの顧問官というのも常任ではなかったこと、改宗後もオランダに居住または出入りし続けていたこと、少なくとも署名した直後の1618年の初めにオランダでの近況を父親に知らせるごく日常的な手紙を送っていることから、信教や不仲が理由で袂を分かったわけではなさそうです。

そこに取り入ったのが南ネーデルランド執政のイザベラ大公妃です。かねてよりナッサウ一族の将校の取り込みを図っていたイザベラは、ここでヤン八世に縁談を仲介します。そして1618年8月にカトリックのリーニュ侯女と結婚したことが、ヤン八世を完全にオランダから切り離してしまったといって良いでしょう。義父のリーニュ侯ラモラールは南ネーデルランド執政府の外交官であり、スペインの「グランデ」および金羊毛騎士でもありました。

父が亡くなった1623年、ヤン八世は次代の皇帝フェルディナンド二世から支援を取り付けるとスペイン軍の大隊長としてジーゲンを武力で乗っ取り、ケルンのイエズス会と共同して領地内の対抗宗教改革を始めました。のち、ヤン八世はスペイン軍と皇帝軍の両方で重要な地位を歴任することになります。

1625年のブレダをはじめ、スピノラ将軍旗下のスペイン=フランドル方面軍の将軍として対オランダ戦線を転戦したヤン八世は、1629年に皇帝軍の元帥となり、金羊毛騎士にも序されています。1631年以降スペイン軍の騎兵大将をも勤めました。オランイェ公となったフレデリク=ヘンドリクや、その副官である実弟ヒルヒェンバッハ元帥とも直接何度も戦っています。1630年には、一時フレデリク=ヘンドリクの捕虜となったこともあります。ベラスケスの絵画 『ブレダの開城』(1635)の中にも、スペイン側の将校としてヤン八世の姿が描かれています。

スウェーデンの参戦により三十年戦争が激しくなってくると、ジーゲンも戦場となり、いったんスウェーデンの手に落ちました。この機をとらえた異母弟のヨハン=マウリッツは、ジーゲンを再プロテスタント化することに成功しましたが、1636年に皇帝によって無効とされ、再度ヤン八世の領有が確認されました。また、ナッサウ領のカトリック化の功績によって、ヤン八世と、同じくカトリックに改宗したナッサウ=ハダマール伯は、皇帝によって領地を没収されたプロテスタントのヴァルラム系ナッサウ家の領地の一部を加増されました。本来、ヤン八世はすべてのナッサウ伯領のカトリック化を目論んでいましたが、ナッサウ=ハダマール伯の戦略的な改宗によりその野心は結果的に阻まれてしまったことになります。

1638年にヤン八世が居城のロンセで亡くなると、カトリックで一人息子のヨハン=フランツ=デジデラトスがナッサウ=ジーゲン伯を継ぎました。が、ヨハン=フランツ=デジデラトスはカルヴァン派の叔父たちと争い続け、ウェストファリア条約の後、結局ジーゲンの地を割譲せざるを得なくなっています。

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