シャルロット・ド・ブルボン=モンパンシエ Charlotte de Bourbon-Montpensier

Charlottebourbon

Attributed to Daniël van den Queborn (ca. 1579) In Wikimedia Commons

  • ウィレム・ファン・オランイェ公妃
  • 生年: 1546 (仏)
  • 没年/埋葬地: 1582/5/5 アントウェルペン(白)/アントウェルペン・ノートルダム大聖堂(『フランダースの犬』に出てくるアレです)

生涯

ウィレム沈黙公の三番目の妻。幼児の頃、伯母の経営していたジュアール修道院へ入れられ、12歳以降は修道院長を務めました。が、1572年、ナバラ女王フアナ三世(ジャンヌ・ダルブレ:アンリ四世の生母)のアドバイスもあり、ユグノーに改宗して修道院を脱走、家族とも縁を切られたため、ハイデルベルクでプファルツ選帝侯の客人となります。何度か結婚の話もありましたが持参金がないため立ち消えとなり、1575年にウィレムと結婚することになりました。(はじめは、先妻アンナの実家との関係、フランスとの関係、ドイツのウィレムの実家との関係などで猛烈な反対を受けました)。ウィレムにとっては、安心して家庭を任せられる最良の妻だったようです。

ネーデルランドでは君主としてフランス王弟アンジュー公が招聘されることになりましたが、彼女はこのアンジュー公の従姉にもあたります。アンジュー公はオランダでは人気がなく、その煽りで彼女まで民衆の反感を買うこともありました。1582年3月、アンジュー公の誕生日を祝う席で、ウィレムは狙撃され重傷を負っていまいます。ウィレムはシャルロットの献身的な看病で辛うじて回復しましたが、5週間にわたる看病疲れでシャルロットのほうが病死してしまいました。成人した子供は娘ばかり6人。結婚から死亡するまでの間、毎年1人のペースで産んだ計算になります。

  • ルイーゼ=ユリアナ
  • エリーザベト
  • カタリナ=ベルギカ
  • シャルロット=フランドリナ
  • シャルロット=ブラバンティナ
  • エミリア=アントウェルピアーナ

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Charlotte de Bourbon