ヘンドリク一世カシミール・ファン・ナッサウ=ディーツ Hendrik Casimir I van Nassau-Dietz

Hendrik Casimir I van Nassau

Wybrand de Geest (ca. 1632) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ディーツ伯 Graaf van Nassau-Dietz, 州総督 Stadhouder(フリースラント、フロニンゲン、ドレンテ), ドイツ騎士団ユトレヒト・バレイ長(1620) Landcommandeur
  • 生年: 1612/1/21 アルンヘム(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1640/7/13 フルスト(蘭)/レーワルデン(蘭)

生涯

ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールの長男。ドイツ騎士団ユトレヒト・バレイがプロテスタント化してからの初のバレイ長でもあります。父エルンスト=カシミールはドイツの領地ディーツではなく、オランダのアルンヘムに居を構えたため、息子たちはオランダ生まれのオランダ人といえるでしょう。

他のナッサウ一族の男子同様、オランダ軍に仕官します。が、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクや父エルンスト=カシミールが最も名を挙げたフロールやスヘルトヘンボスの戦いには、若年のため参加していません。1631年に成人すると、正式に歩兵大隊長および騎士団バレイ長(それまでは父が代行していました)となり、さっそく1632年のマーストリヒト遠征には、従兄ヨハン=マウリッツとともに従軍しています。その後ほとんどのフレデリク=ヘンドリクの攻囲戦に将軍として参戦しています。父と違い、政治には全く不得手で、軍事サイドにばかり関心と適性があったようです。

とはいえ実は、自軍の指揮をほとんどしたことがないという一面もあります。というのも、政治経済に無関心なことが災いして、スタットハウダーであったフリースラント議会との関係が必ずしも良くなく、フリースラント議会が共和国全体の作戦に軍隊を派兵するのを渋ったからです。つまりこれは、フリース軍の総大将であるにも関わらず、自分の自由にできるはずのフリース軍を、有事の際に指揮できないということを意味しています。フレデリク=ヘンドリクが彼の能力を非常に高く買っていたため、スタットハウダーとしてではなく他の将軍と同じように扱い、本人もむしろそれを由としていたのだと思われます。1637年に共和国軍としての歩兵大将。騎兵を用いての斥候・陽動作戦や、連隊を率いて防衛線の一角をまかせられたり、重要な役割を与えられています。

父エルンスト=カシミールの死後、母のゾフィー=ヘートヴィヒがディーツの領地に移り住み、三十年戦争の危機にあったドイツ・ナッサウ伯たちを束ねる立場になりますが、かつて父エルンスト=カシミールがドイツの父や兄たちに書き送っていたように、オランダでの戦争や政治の状況を逐一母に伝える役目はヘンドリク=カシミールが担いました。

1640年のフルストの戦いで、若くして戦死。未婚で子供もなかったため、ナッサウ=ディーツ伯、フリースラント州総督、ユトレヒト・バレイ長の称号と職務が、年子の弟ウィレム=フレデリクに受け継がれました。その死は、味方からだけではなく、敵からも非常に惜しまれました。とくに、フレデリク=ヘンドリクの落胆ぶりは相当なものだったようです。

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