ヤン・ファン・ナッサウ(七世/中ヤン)Jan VII van Nassau-Siegen, ’Jan de Middelste’

Jan de middelste van Nassau-Siegen

Attributed to Jan Antonisz. van Ravesteyn (1610-20) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graaf van (Graf von) Nassau-Siegen, 中ヤン’Jan de Middelste’、スウェーデン軍元帥(リヴォニア方面軍 1601-02)
  • 生年: 1561/6/7 ディレンブルク(独)
  • 没年: 1623/9/27 ジーゲン(独)

生涯

ヤン六世の次男。長兄ウィレム=ローデウェイクがオランダで州総督になったことから、ドイツのナッサウ伯の所領経営は実質的にヤン七世が継ぎました。

一般的には「ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン七世」と表記すべきかと思います。もちろん彼のオランダ軍制改革への影響も大きいですが、同様またはそれ以上にドイツ領邦での軍制改革にも貢献しているため、オランダ語表記は正しくないかもしれません。が、当サイト内では同名の父ヤン六世・息子ヤン八世との関係からオランダ語表記に統一しました。オランダでは「ヤン・デ・ミデルステ(中ヤン)」とも呼ばれます。

1589年、ヤン七世、ウィレム=ローデウェイク、マウリッツは本格的に軍制改革に着手し始めました。詳細は「オランダの軍制改革」参照。かといって、3人で仲良く協力して、というよりも、三者三様で理論も方法論も違っていたため、どちらかというとそれぞれの得意分野の持ち寄り型だったようです。ヤン七世に関しては、軍略家の性格が強いです。1590年代初めに描かれたと思われる教練の自筆スケッチが残されており、その後おそらく1597-1599年頃、画家のデ・ヘインと出会って、自らの教練スケッチをもとに『武器教練』の製作を依頼したと思われます。実際の出版は1607年。ほかにも持論についての著作を残しており、自分たちの改革の内容を広める役割を担ったといえます。「ナッサウ伯領の軍制改革」も参照。

オランダでは1592年のステーンウェィク、クーフォルデン攻囲戦に実戦で加わった後、1599年にはプファルツで将軍格、1601-02年はスウェーデン軍に招聘され、ポーランド方面軍の元帥を任されつつ、オランダの軍制改革の骨子を伝えました。父ヤン六世存命のうちはこのように、オランダ各所、ドイツ各所、スイス、スウェーデンなどなど、とにかくプロテスタント・ヨーロッパ中あちこちに出没します。弟たちや息子たちも今どこに居るかが分からず、「しばらく連絡がつかないが居場所を知らないか」とか「昨日まで一緒に居たけどどこにいくか聞く前にいなくなった」など、お互い所在をつかむのに難儀している様子も見られます。家督を継いで以降は、基本的にはディレンブルクやジーゲンなどドイツの自領を拠点としていたようですが、50歳を過ぎてもプファルツで傭兵として軍務についていたり、父ヤン六世ほどは家に腰を落ち着けていないようです。

1617年、ジーゲンに貴族の子弟向けの士官学校を設立し、たくさんの将校を輩出しました。しかし継ぐ者がなく、学校はヤン七世の死とともに閉校となってしまいました。1620年、ハイデルベルクでスウェーデン国王グスタフ二世アドルフと出会い、軍事談義をしたと伝えられています。1623年死去。息子には、カトリックに改宗しスペイン軍に仕官したヤン八世や、『マウリッツハイス』で有名なブラジル総督ヨハン=マウリッツ等がいます。父ヤン六世同様、嫡子は20人以上を数える子沢山でした。

ただ、これだけたくさんの息子に恵まれたにも関わらず、あまりにもストイックな教育方針だったこと、息子たちを次々と戦地に送り込むばかりで、領地経営の後継者といえる人物を育てていなかったことが災いし、その死後にはナッサウ=ジーゲン領に内紛をもたらすことになってしまいます。父親としては、ヤン六世には程遠かったといえそうです。

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