ルイーズ・ド・コリニー Louise de Coligny

Portrait of Louise de Coligny Mauritshuis 97

workshop of Michiel van Mierevelt (1600-1625) In Wikimedia Commons

  • ウィレム・ファン・オランイェ公妃
  • 生年: 1555/9/23 シャティヨン(仏)
  • 没年/埋葬地: 1620/11/23 フォンテーヌブロー(仏)/デルフト・新教会

生涯

ウィレム沈黙公の四番目の妻。父は有名なユグノーの提督ガスパール・ド・コリニー。フランス国王アンリ四世やブイヨン公アンリ(のち義理の娘エリーザベトの夫となります)とは、同年齢のユグノーであり、それぞれ親友でもありました。17歳のときシャルル・ド・テリニーと結婚しますが、その3ヵ月後「サン・バルテルミーの虐殺」で、父と夫の両方を虐殺されてしまいます。

ウィレムは1582年の暗殺未遂事件ののち妻のシャルロットと死別しました。が、シャルロットの産んだ娘がまだ幼かったこともあり、家政をまかせる妻の必要を感じて、約1年後の1583年4月にルイーズと結婚します。皮肉なことに、この1年3ヶ月後にウィレムも暗殺されてしまうため、ルイーズの2度にわたる結婚生活は、たった1年半しかなかったことになります。さらに余談になりますが、1585年の「ノンサッチ条約」によりオランダに援軍に来ていたイングランド将校、フィリップ・シドニーとルイーズの間のロマンスに言及している資料もあります。(この2人はサン・バルテルミーの時期から顔見知りです)。しかしこのシドニーも翌1586年に戦死してしまうため、次々と周りの男性に死なれてしまうという、不幸な星回りの女性であったということもできるでしょう。

ウィレムの死後は義理の娘たちや、生まれたばかりのフレデリク=ヘンドリクとオランダ各地を転々としたあと、1590年に連邦議会からハーグのノールトエインデ宮を貸与され、やっと居を定めることができました。のちこの宮殿はルイーズに譲渡されます。義理の娘たちにとっては良い母親であり、フランス風の教育を施しました。また、ウィレムの弟ヤンと協力して、1598年までに娘たちのほとんどを外国の貴族たちに嫁がせ、オランイェ家の利益のため貢献もしました。フランス貴族とのコネも強いことから、何度かフランス大使に同行してフランスに行ったこともあります。本人もオランダやドイツの粗暴さを嫌っており、何かにつけフランスに戻りたがっていました。ホームシックで病気にかかったこともあるほどです。義理の息子のマウリッツや他のナッサウ伯たちとは、互いに尊敬はするものの決して折り合いは良くなく、その粗野な生活態度には常に口出ししていました。息子のフレデリク=ヘンドリクをこれら兄や従兄たちから遠ざけ、フランスで官職に就かせようと画策したこともあります。ナッサウ伯の中でも唯一健全な生活を送っていた、ウィレム=ローデウェイクのみと話が合ったようです。

1617-1619年の宗教論争の時期は、息子フレデリク=ヘンドリクとともに、穏健派に属したままでいることを許されていました。が、オルデンバルネフェルトの処刑の前日、夜を徹してマウリッツに助命嘆願をしたものの受け入れられませんでした。また度重なる紹介にも関わらず、息子のフレデリク=ヘンドリクは一向に結婚する気がなく、晩年はこれらの心痛に悩まされていたようです。1620年フランスへ一時帰国した際、マリー・ド・メディシス(アンリ四世王妃)のフォンテーヌブローの舘で客死しました。その後遺体はデルフトに移され、夫ウィレムの横に埋葬されています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Louise de Coligny
  • ADB