ハンス=エルンスト・ファン・ナッサウ=ジーゲン Hans Ernst van Nassau-Siegen

Portret van Johan Ernst I (1582-1617), graaf van Nassau-Siegen Rijksmuseum SK-A-531

Anonymous after Jan Antonisz. van Ravesteyn (1609-33) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graaf van Nassau-Siegen
  • 生年: 1582/10/21 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1617/9/27 ウーディネ(伊)/ジーゲン(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の長男。ジュネーヴやカッセルで学んだ後、フリースラント州総督である伯父ウィレム=ローデウェイクに手ずから育てられて1601年オランダ軍の将校となり、「新乞食」と称する古参のワロン兵を率いました。また、ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクや、その母方の従兄弟コリニー=シャティヨン兄弟と同世代でもあります。1603年、イングランドの新王ジェームズ一世の即位式には、フレデリク=ヘンドリクと一緒に参列しました。なお、本名「ヨハン」は次弟の「ヤン(ヨハン)」と同じ名前なので、家族の間でも「ハンス」と呼ばれて区別されています。また、自らの死後直後に生まれた、実に35歳年下の異母弟が、同じヨハン=エルンストと名づけられています。

伯父ウィレム=ローデウェイク同様、ドイツのナッサウ=ジーゲン家の家長の長男の立場ではありましたが、オランダでの役割を優先させられ、また本人の志向もおそらく軍人稼業でした。将来的にはウィレム=ローデウェイクの跡継ぎとして北部二州の州総督や、未来のオランイェ=ナッサウ家家長であるフレデリク=ヘンドリクの生涯にわたる補佐役を期待されていたと思われます。

若年期から非常に軍事的な素質があるとして、叔父のナッサウ伯エルンスト=カシミールには、現場でだいぶ可愛がられたようです。1603年に歩兵中隊長、1606年にワロン隊の大隊長となって、オーステンデ、フラーフェ、スライス攻囲戦などに参戦しました。ちょうど軍人としての適齢期に1609年からの「十二年休戦条約」の時期がかぶってしまいますが、1610年のユーリヒ戦線では、総大将ナッサウ伯マウリッツに次ぐ副将格の地位を与えられています。1615年、フレデリク=ヘンドリクと共にブラウンシュヴァイク公国の依頼で遠征もしました。

クロアチア(オーストリア・スペイン連合軍)とヴェネツィア共和国が戦ったグラディスカ戦争(1615-1617年)で、オランダ共和国はヴェネツィアから援軍を要請されます。この遠征軍の将軍を任されたハンス=エルンストは、弟のウィレム(後のナッサウ=ヒルヒェンバッハ元帥)とヴェネツィアに向かうことになりましたが、当初から天候不順や航行トラブル、それに伴う資金難等に見舞われ、計画よりも大幅に出発が遅れました。さらにヴェネツィアに着いた後も、宗教の違いによる軋轢や、ヴェネツィア軍司令官ジョヴァンニ・ディ・メディチとの不仲、補給(とくに飲料水)の不足などの問題に相次いで見舞われます。ハンス=エルンスト率いるオランダ軍はグラディスカ攻囲戦などで善戦するものの、結局彼らをよそにマドリードで妥協的な和平が結ばれるに至り、遠征は無為なものに終わってしまいました。

攻囲戦中に赤痢に罹っていたハンス=エルンストは、本国からの帰還要請もあり療養に努めていましたが、その甲斐なく、まさに和平の翌日に病死しました。本人はアルンヘム(若年で戦死した叔父たちの墓所がある)への埋葬を希望したようですが、遺体は故郷のジーゲンへ運ばれました。

子供時代こそ、伯父ウィレム=ローデウェイクや父親ヤン七世の評価は「怠け者」でしたが、長じて後は思慮深く、忍耐強く、節度があり、大胆かつ慎重で、経験に裏付けられた知識に富み、味方の兵士の扱いだけでなく敵のあしらいも良く心得た「賞賛すべき美徳にあふれた」人柄だったとのことです。

若年期はおじいちゃん子で、祖父のヤン六世が存命中には、彼に宛ててよく手紙を書いています。このサイトでも若干ご紹介。
盾持ちハンスの一日
ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ レーワルデンでの近況
ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ ラインベルク攻囲戦
ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ オーステンデ攻囲戦

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