フレデリク=ヘンドリク・ファン・オランイェ=ナッサウ Frederik Hendrik van Oranje-Nassau

FrederickHenryPrinceOfOrange

Anthony van Dyck (circa 1629) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公 Prins van Oranje, ナッサウ伯 Graaf van Nassau, 州総督 Stadhouder (フリースラントを除く6州), 陸海軍総司令官 Kapitein-Generaal, 「都市奪還者」 ‘Stedendwinger’
  • 生年: 1584/1/29 デルフト(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1647/3/14ハーグ(蘭)/デルフト・新教会

生涯

ウィレム一世と四番目の妻ルイーズ・ド・コリニーとの一人息子。ウィレムの正嫡としては三男。デンマーク国王フレゼリク二世とフランス国王(当時はまだナヴァール王)アンリ四世が名付け親となりました。生まれて半年と経たないうちに父ウィレムが暗殺されたため、母ルイーズや姉たちとミデルブルフなど各地を転々としたあと、1590年頃からハーグのノールトエインデで育ちました。子供の頃は非常に体が弱く、大人になってからも何度か大病をしています。1594年からレイデン大学で学び、同年代の国際法学者グロティウスと友人となりました。1593年、連邦議会より給料名目(レイデンの学費のためという説もあります)の歩兵大隊長に任じられますが、実際に戦場へ行ったのは1597年の遠征が最初です。このときは若年のため議会の議員たちと同等の扱いであり、実際に戦場で指揮などはしていません。1598年、母ルイーズ、異母兄ユスティヌス、オルデンバルネフェルト、グロティウス等とともにフランスに行き、国王アンリ四世に拝謁しました。このとき、異母兄のフィリップス=ウィレムとも顔を合わせています。

1600年のニーウポールトの戦いが事実上の初陣です。以来、兄マウリッツや従兄エルンスト=カシミールを教師として、軍事経験を重ねていき、1603年3月には歩兵を率いる将軍(マウリッツに継ぐNo.2)に任じられています。同時に外交にも本格的に関わりはじめ、同年、イングランドでジェームズ一世が即位すると、共和国代表団とともにイングランドに赴きました。フランスに嫁いだ姉たちのもとにも何度も訪れています。また、国内ではほとんど兄マウリッツと行動をともにしています。十二年休戦条約交渉の際にも和平には反対し、父ウィレムの遺産相続問題でも、マウリッツと組んで兄や姉と争いました。

逆に宗教論争の時期は、マウリッツが厳格派を選択した後にも穏健派のミサに出席するなど、最後まで自分の立場を留保していました。その後クーデターの時期になるとオランダを離れ、オランイェ公領やパリなどフランスに長期外遊をしています。いずれも、クーデターがどちらに転んでもオランイェ家の存続にはダメージがないようにとの、マウリッツ側の配慮といわれています。

休戦が明け、マウリッツの軍務を引き継ぎ、兄が病に倒れてからはエルンスト=カシミールとともに指揮権を移譲されました。フレデリク=ヘンドリクはごく早いうちからマウリッツの跡取りと公言されてきましたが、これまで母や従兄たちから再三の紹介があっても、決して結婚しようとはしませんでした。この問題を巡って、従兄のヤン七世とはかなり関係が悪化してもいます。最終的にフレデリク=ヘンドリクは愛人だったアマーリア・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスと結婚することになりますが、父ウィレムの正統な血統を遺すために結婚しなければ後継者と遺産相続の権利を取り消す、と、死を目前にした兄から脅迫じみた方法で強要されたためです。ちなみに、アマーリアとの結婚前に、別な女性との間に私生児フレデリクが生まれています。

アマーリアとの結婚後は、オランイェ家に「王朝的」風潮をもたらしたといわれます。1627年7月5日にはイングランドからガーター勲章を、1637年1月3日にはフランスから「殿下」の称号を与えられ、「非公式君主」とみなされました。マウリッツ時代には建設されなかった宮殿を複数建設したりもしましたが、父や兄と同じく、やはり自らが君主となる意図は持ち合わせていませんでした。もともとフランス人の母親に育てられていたため社交をわきまえており、若年期から外国君主との交遊経験が豊富だったこともあって、外交にも秀でています。連邦議会とは別に独自の外交ルートを持っていました。イングランド王室とは長男ウィレム二世とチャールズ一世王女メアリとの結婚を成立させ、フランスの宰相たち(リシュリューのちにマザラン)とは「南ネーデルランド分割構想」で接近しています。交戦相手国であるスペインの執政イザベラその人とも交流がありました。

文化的にも黄金時代を迎えた共和国で、とくに絵画収集、ロイヤルコレクションを始めたのはフレデリク=ヘンドリクとアマーリア夫婦です。ルーベンス、レンブラント等とも知己がありました。詳しくは「オランダのロイヤル・コレクション事始め ~オランイェ公フレデリク=ヘンドリクと妻アマーリアの美術品収集」も参照ください。

戦争に関してもナッサウ家の名に恥じぬパフォーマンスを発揮しています。1627年のフロール、1629年のスヘルトヘンボスを皮切りに、スピノラ将軍に落とされた都市を次々と再奪還しました。この功で「都市奪還者」の渾名で呼ばれます。兄マウリッツ譲りの知識技術だけではなく、スピノラの用いた手法まで取り入れ、大規模な「環状防衛線」を得意としました。1637年のブレダ再奪還が軍事的成功のピークですが、その9年後、死の直前まで現役司令官であり続けました。1640年代に入ると和平の機運が高まってきますが、軍を率いる者としてのフレデリク=ヘンドリクは最後まで和平には反対していました。彼自身はミュンスターの講和を見ることなく病死しましたが、その意志は長男ウィレム二世に受け継がれました。

このようにフレデリク=ヘンドリクは、父ウィレム同様に外交に、兄マウリッツ同様に軍事に長け、三代目としてオランイェ=ナッサウ家の磐石の基礎を築きました。が、なぜか日本ではもちろん、オランダ本国でもあまり研究が盛んではなく、三十年戦争研究でも脇役に甘んじています。本人がフランス語を母語としていたことも、オランダで研究が進みにくい理由かもしれません。

趣味はテニスとビリヤード。兄とは対照的にいかにも軟派な感じです。いずれも、本人がプレイしている絵画が残されています。
また、服装も派手好き。これも黒ばかりを好んだ兄と対照的に、絵画の中ではすぐにそれとわかるカラフルな格好をしています。戦場でも黄金鎧を着ていたり、自ら的になるようなこともしばしばだったようです…。

リファレンス

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