オランダのロイヤル・コレクション事始め

Zilveren tafelstuk van de Slag bij Nieuwpoort

John Samuel Hunt (1847) マウリッツのニューポールトの戦い騎馬像 In Wikimedia Commons

オランダが「王国」になったのは19世紀になってから。なので、厳密な意味での「ロイヤル」コレクションは19世紀からの話ですが、共和国時代から、すでにその萌芽はありました。

ナッサウ伯マウリッツと肖像画家

マウリッツは古典や自然科学に非常に造詣の深い人物でした。1584年の父ウィレムの暗殺によって、彼はレイデン大学から強制的に呼び戻されてしまいます。が、その後もシモン・ステフィンを私教師としたり(マウリッツの名は明記はされていませんが、ステフィンとマウリッツの共著ではないかといわれる本もあります)、戦場に馬車いっぱいのラテン語の図書を持ち込んだりと、独自に勉学は続けていました。その反面、文化芸術方面にはかなり疎かったようです。ある日、画家をたくさんあつめて何をするかと思えば、遠近法について数学的な説明を求めたりしました。絵画に込められる芸術的意図や寓意などよりも、あくまで技法そのものに関心のあったことがわかるエピソードです。

Michiel Jansz van Mierevelt - Maurits prins van Oranje-edit 1

Michiel Jansz. van Mierevelt (1613-20) マウリッツの「ガーター版」全身像 In Wikimedia Commons

十二年休戦期に入ると、マウリッツの肖像画がたくさん描かれるようになってきます。連邦議会による全身像の発注が最初なので、休戦反対派だったマウリッツへの追従や賄賂的な意味合いもあったのかもしれません。アムステルダムの国立博物館にはこのときの肖像画が所蔵されていますが、この説明文に、ガーター叙勲を記念して改めて描かれた旨が明記されていました。別に描かせていた肖像画にはペンダントが描かれていなかったため、あらためてガーター版も描かせたということのようです。

Self portrait, by Michiel van Mierevelt

(1640-41) ミーレフェルトの自画像 In Wikimedia Commons

議会とマウリッツいずれの側の選択かはわかりませんが、このときの画家は工房を営んでいる肖像画家が選ばれました。デルフトに住む肖像画家ミーレフェルトが、ナッサウ家の宮廷画家として肖像画を多作しています。要は、一度マスター(テンプレート)となる肖像画を作成すると、その後は大勢の弟子たちによって大量にコピーがつくられるタイプの画家ということです。この全身像も、同じようにガーター有・無版でコピーが描かれたと思われます。

デルフトのプリンセンホフで、ミーレフェルト特別展を開催していました。2011/9/24-2012/3/4
公式サイト: Portretfabriek Van Mierevelt

ちなみに、この時期のオランダの絵画で、画家の名前の前に、「After」「Attributed」「Circle」「School」「Workshop」などの文字が入っているものが、工房製または弟子による模写です。

このような描き方は、現代の我々からすると、なんとなく身分の高いモデルに対しては失礼なような気もしますが、逆にいえば、肖像画を作成する度に画家を呼んで長時間ポーズをしなくても良いということになります。いったん作成したフォーマットをもとに、あとは工房で若干のバリエーションをつけて量産するかたちです。年数が経てば、顔を老けさせていきます。このような合理性が、むしろマウリッツのような人物には好まれたのかもしれません。

Man, Cornelis de - A Man Weighing Gold - c. 1670

Cornelis de Man (1670) 金を天秤にかける男 In Wikimedia Commons 一般家庭の暖炉の上にもマウリッツの肖像が掲げられています

複製画を購入する側からしても、肖像のモデルの都合を気にせず、直接工房に依頼することが可能です。しかも、キャンバスの大きさ、胸像か全身像か3/4像か、描き手(画家本人の手が入るか弟子だけで描くか)等の条件別で細かい価格表もあります。有名人のポスターを買う感覚で、第三者が勝手に他人の肖像を予算に応じて発注できるということです。たとえば当時ミデルブルフ市議会が、市庁舎用としてマウリッツの全身像と同じものを工房に依頼しています。また、上掲の絵は金貸しの家です。ある程度裕福とはいえ、一般人の家庭でもマウリッツの胸像を購入して飾っています。

Jan van Ravensteyn by Anthony van Dyck

Anthony van Dyck (1600-1641) ラーフェステインの肖像 In Wikimedia Commons

これはこのように同一人物の時系列についてもいえますが、複数の人物の大量発注の場合も同じです。1612年マウリッツは、休戦前までに自分の下でよく働いてくれた将校25名の肖像画を、ミーレフェルトの弟子でハーグの肖像画家・ラーフェステインに発注しました。これも、顔から下はほとんど同じ構図とポーズ(太っている痩せている程度の違いはあると思いますが)で、工房の弟子たちが分担で描き、顔だけ画家本人が手を入れていったようです。とくに軍人の場合は服ではなく鎧を着用しているので、本人の服を借用する必要もなく、パターン化も容易だったと思います。残念ながらこれらの将校たちの名前がそれぞれ絵の中に書き入れられなかったため、現在ほとんどが「ある将校の肖像」として、人物の特定がされないまま残されています。ハーグのマウリッツハイス美術館では、そのうち20数点のコレクションを収蔵しています。(25名がそれぞれ1枚ずつ、というわけでもないようです)。

上記に、ミーレフェルトとラーフェステインの絵の一覧をリンクしました。面白いくらいに型にはまった構図です。さらに、絵が描かれた時点でその場に居ない人物や既に亡くなっている人物(=いずれも画家による本人のスケッチが不可能)の肖像も散見されます。なかでもナッサウ家の故人たちの肖像画は、一族の権威付けのために、やはりこの時期まとめて発注されたものと思われます。「祖国の父」ウィレム一世の墓標がデルフトの新教会につくられたのもこの時期です。

BASSEN Bartholomeus van The Tomb Of William The Silent

Bartholomeus van Bassen (1620) ウィレム沈黙公の墓標(1614年建設開始)In Wikimedia Commons

交戦相手国であるスペイン側の将軍たちの肖像が数多くあるのも特筆すべき点です。マウリッツは「著名な英雄」シリーズの肖像を集めた部屋をつくっていました。スポーツでライバルチームの写真を記念に撮っておくのに近い感覚なのでしょう。下記の肖像は、ちょうどスピノラ将軍が休戦の使節としてハーグを訪れていた際に描かれたものです。

Michiel Jansz van Mierevelt - Ambrogio Spinola

Michiel Jansz. van Mierevelt (1609) スピノラ将軍の肖像 In Wikimedia Commons

いずれにしても、芸術に興味のある人間の収集というよりは、政治的な意図や「記録」「記念」の性格を持ったコレクションであるといえます。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリクと妻アマーリアの美術品収集

Anthonie Jansz van der Croos - Gezicht op Huis ter Nieu-burg bij Rijswijk 1661

Anthonie Jansz. van der Croos (1661) ニーウブルフ宮殿 In Wikimedia Commons

フレデリク=ヘンドリクの記事に、「フレデリク=ヘンドリクの研究は少ない」と書きましたが、美術史に関してはその限りではありません。この頃のオランイェ家はまだ「王家」ではありませんが、王室の美術品収集、いわゆるロイヤルコレクションに類するものをオランダで最初にはじめたのは、フレデリク=ヘンドリクと妻のアマーリアといわれています。そのため、彼らの絵画収集の研究はそれなりに盛んです。

Hof te Honsholerdijk (17e eeuw)

Balthasar Florisz. van Berckenrode (1625-1645) ホンセラールスデイク宮殿 In Wikimedia Commons

マウリッツは生前、その財産を貯めこむばかりで自分ではあまり散財しませんでした。さらに、長兄フィリップス=ウィレム、長姉マリアともに子供はなく、マウリッツが管理していた姉妹エミリアの財産も含め、それらの莫大な遺産がすべて後継者の末弟フレデリク=ヘンドリクひとりに遺されました。宮殿が3つも4つも建ったほどです。新たに建てられたこれらの宮殿だけではなく、ビネンホフや母ルイーズ・ド・コリニーから相続したノールトエインデ宮などの旧来の住居にも、収集品のためのギャラリーが作られました。それでも当時の周辺諸国の王室と比べたら多分に慎ましやかな宮廷だったようです。

Theagenes receiving the palm of honour from Chariclea

Abraham Bloemaert (1626) Theagenes and Chariclea In Wikimedia Commons フレデリク=ヘンドリクがノールトエインデ宮に所有していた『エチオピア物語』を題材にした絵画

フレデリク=ヘンドリクは少年期からフランスで生活したり、近隣諸国の宮廷やそこに集う文化人との交流があったため、芸術品を好む素養もあり、自らの側近たちもホイヘンスやカッツなどの文学人です。ルーベンスとも知己があり、レンブラントの訪問を受けたこともあります。(もっとも、個人的にはレンブラントの画風は好まなかったとか)。アマーリアは、生まれこそ決して高貴な部類には入りませんが、プファルツ選帝侯の宮廷、とくにイングランド王女でもある妃エリザベスの侍女であったため、この侍女時代に審美眼を養ったとされています。自ら足繁くオークションに出向いては、目利きすることもしばしばだったようです。

Gerrit van Honthorst

(17th century) ホントホルストの自画像 In Wikimedia Commons

肖像画家に関しては、マウリッツ時代をある程度踏襲しています。はじめは引き続きミーレフェルト、彼が亡くなる前後からは、ユトレヒトの画家ヘラルト・ファン・ホントホルストが宮廷画家の任につきました。ホントホルストは、選帝侯妃エリザベスやイングランド大使カールトンのお気に入りの画家でもあり、イングランド王室・デンマーク王室の援助も受けていました。オランイェ家の贔屓となったのも自然の流れかもしれません。

Gerard van Honthorst - Frederick Hendrick with His Wife Amalia van Solms and Their Three Youngest Daughters - WGA11678

Gerard van Honthorst (circa 1647) フレデリク=ヘンドリクと家族 In Wikimedia Commons

上記にホントホルストの絵の一覧をリンクしました。彼の手による単独の肖像画の場合は従来と同様軍装のフォーマットで描かれていますが、マウリッツ時代との最大の違いは、夫婦像や家族像などが多くみられるようになったことです。また、ホントホルストの場合はミーレフェルトと違って肖像画専門の画家というわけではなく、聖書を題材にした作品や風俗画なども描いています。たまたま複数の王室の目に留まったため、肖像画を多作せざるを得なかっただけと思われます。

Jaques Jordaens - Het Gulden Cabinet

After Jacob Jordaens (1662) ヨルダーンスの自画像の模写 In Wikimedia Commons

フレデリク=ヘンドリクとアマーリアがハーグ郊外に建てた夏の離宮が、現在のオランダ王室の宮殿であるハウステンボス宮殿です。この中央のオランイェザール(オランイェ家部屋)には、亡くなった夫を偲んだアマーリアが、アントウェルペンの画家ヤーコプ・ヨルダーンスをはじめとした当代活躍している数名の画家に依頼して部屋中に壁画を描かせました。しかし場所が場所だけに、我々は写真でごく一部しかその内部を垣間見ることはできません。長崎県佐世保市のテーマパークハウステンボスにも、この宮殿の1/1レプリカの宮殿「パレスハウステンボス」が建てられましたが、このオランイェザールの壁画だけは王室の許可が下りずに複製できなかったそうです。

Jordaens Triumph of Frederik Hendrik

Jacob Jordaens (1647-1652) フレデリク=ヘンドリクの勝利 In Wikimedia Commons

上記はオランイェザール内の写真(一部)。中央やや右下の赤いマントがフレデリク=ヘンドリク、両端のオレンジの木の下の黄金像は父ウィレム一世(右)と兄マウリッツ(左)、フレデリク=ヘンドリクのさらに右下の鎧の騎馬武者が息子ウィレム二世です。このようなアレゴリー(寓意画)も17世紀にはよく描かれています。

おまけ・東洋の文物

Japanese lacquer guns - Staatliches Museum für Völkerkunde München - DSC08376

蒔絵の施された日本製銃器 In Wikimedia Commons

この時代は、オランダ東インド会社などを通じて、東洋の文物もたくさんもたらされました。マウリッツにはオランダ東インド会社の役員たちから「日本の戦争の絵」(戦国絵巻か何かでしょうか)が贈られ、アマーリアはとくに好んだ中国の陶磁器や日本の漆器をコレクションしたとのこと。この辺からもこの二者の趣味の違いがうかがえます。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
  • フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行―昔日の巨匠たち』 、岩波書店、1999年