世界遺産「アムステルダムの17世紀の環状運河地区」と17世紀の市域拡張計画

アムステルダムは首都であるだけでなく、その街自体がユネスコ世界遺産に登録されています。アムステルダムの地図を見ると、バウムクーヘンのような扇状の半円形をしています。これはすべて人の手によって整備されたものです。

Jacob van Ruisdael - A view of Amsterdam 1665-1670

Jacob van Ruisdael (1665-1670) アムステルダム鳥瞰図 In Wikimedia Commons

17世紀のアムステルダムでは四期に分けて市域拡張計画が実施されました。このライスダールの絵画は、ちょうど第四次拡張が終わった直後くらいの鳥瞰図です。

アムステルダム市域拡張計画

17世紀のアムステルダムの市域拡張計画は、1578年から1665年のほぼ100年間、第一次から第四次に分けられます。その前後も含め、6枚の地図でその拡大の変遷を追ってみます。

  1. 1578年 アムステルダム市がカルヴァン派採用 信教による人口の移動がおこる
  2. 第一次 1585年 アントウェルペン陥落(1585)による南部からの移民流入 要塞化
  3. 第二次 1606年 第一次とひとくくりにされる 1596年からの経済危機による一時頓挫ののちの再計画
  4. 第三次 1613-1625年 十二年休戦条約期/レイニール・パウが市長の時期
  5. 第四次 1660-1665年 第一次無州総督時代
  6. 1685年 ナントの勅令廃止によるフランス移民の流入

1. 拡張計画「前」

Braun Amsterdam UBHD

Georg Braun / Frans Hogenberg (1572) In Wikimedia Commons

拡張計画「前」、人口移動の起こる前の図です。1538年頃に描かれた地図とほとんどかたちが変わりません。市域を囲む運河の外は、すぐに畑になっています。ただ、既に海運は盛んで、運河内にも小船がたくさん泊めてあります。

2. 第一次

Amsterdam1593

Guicciardini (1593) In Wikimedia Commons

第一次拡張計画後を描いたもの。拡張計画前とのいちばんの違いは周囲の要塞化で、街全体が稜堡で囲まれました。

3. 第二次から第三次

Balthasar Florisz. van Berckenrode - Amsterdam

Balthasar Florisz. van Berckenrode (1625) In Wikimedia Commons

第二次拡張を経て、第三次拡張がちょうど終わった頃です。街全体も大型化しており、右下の港部分も埋め立てが行われ、陸地を増やしています。

4. 第三次以降

Map of Amsterdam - Amstelodami Celeberrimi Hollandiae Emporii Delineatio Nova (J.Blaeu, 1649)

Joan Blaeu (1649) In Wikimedia Commons

第三次以降とくに知られた拡張計画はなかったものの、年々マイナーチェンジはしているようです。左下の港の端の海部分まで要塞がせり出してきています。また、左側全体に薄ーく堡塁の線が描かれていて、後の大規模拡大計画につながる様子は既に見て取れます。

5. 第四次

Amsterdam1662

Daniel Stalpaert (1662) In Wikimedia Commons

第四次拡張計画時の図。1649年の地図の外枠より、心持ち大きいでしょうか。100年前と比べると、5倍以上の面積に広がりました。第一次無州総督時代で、かつ、英蘭戦争で海戦は行われているものの、ミュンスターやフランスから陸路での侵攻が行われる前の時期です。外側に行けば行くほど碁盤の目状になっていて、ここに至って、「環状運河」が完全に整備されたといえます。

6. 拡張計画「後」

Amsterdam1688

Frederik de Wit (1688) In Wikimedia Commons

17世紀における拡張がほぼ完成した頃の拡張「後」の図。オランダ侵略戦争を経て、ちょうどウィレム三世の「名誉革命」の頃です。市域は第四次拡張計画時とほぼ同じですが、第四次計画時に新たに造成された宅地にはだいぶ家も増えて、入居も進んでいるようです。

第一次・第二次こそ宗教的な理由での移民流入という不可抗力によるものですが、第三次・第四次は純粋に商業の発展による拡張です。また、これらの拡張は、休戦期や英蘭戦争期など、陸軍の活動が停滞しているときに大々的に行われています。「黄金時代」のオランダひいてはアムステルダム商人の財力をもってしても、軍隊(とくに大規模攻囲戦)の維持費と都市の拡張工事は並び立たなかったということです。逆にいえば、それだけ歳出に占める軍事費の割合が大きかったことがわかります。

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