『ブレダの開城』(槍)/油彩・画布 (1634-1635)

Velazquez-The Surrender of Breda

ベラスケス (1634-35) 『ブレダの開城』 In Wikimedia Commons

  • 種類: 戦勝画(1625年のブレダ攻囲戦勝利の10周年記念として)
  • 作者: ディエゴ・ベラスケス
  • 依頼者: オリバーレス公伯爵
  • 所蔵場所(当初): スペイン王室離宮/ブレン・レティーロ宮内『諸王国の間』
  • 所蔵場所(現在): マドリード プラド美術館

作品メモ

上記のとおり、ブレダの攻囲戦10周年記念として描かれた戦勝画です。

戦闘についての詳細は、個別記事「ブレダ攻囲戦(1624-25)」にてどうぞ。

右側がスペイン、中央がスペインのフランドル方面軍総司令官ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ。スペインカラーである赤の肩帯をしています。また、青の市松模様に赤の×が描かれたスペイン軍旗(スピノラ隊旗)が前面に描かれています。「槍」という副題どおり、長槍(パイク)兵が多いのが特徴です。

Tercio - Spínola

スピノラ軍旗 In Wikimedia Commons

左側がオランダ、中央がナッサウ伯ユスティヌス。本人もオランダカラーのオレンジ色の肩帯をしているほか、後ろの兵たちの矛槍にもオレンジ色のリボンが結んであります。また、奥にオランダの三色軍旗もみえます。こちらは矛槍兵が中心ですね。スペイン人より髪の色素が薄い人や長身の人が多く、北の人たちっぽい感じ。

ブレダ男爵領は1403年以来ナッサウ家の所領です。オランイェ公ウィレム一世も、「オランイェ公」「ナッサウ伯」のほかに、「ブレダ男爵」の称号も持っていました。(ウィレムの死後はいったんブレダ男爵は途切れます)。オランイェ公の舘もブレダにあり、ウィレムは若年期に、彼の次男マウリッツも少年期に、それぞれ数年間ここで過ごしています。1590年の「ブレダの泥炭船」で共和国が奪還して以降、マウリッツの手によって要塞化されました。ウィレムの長男フィリップス=ウィレムも、ブレダ男爵号が返還された1604年以降に拠点のひとつとしていました。

ブレダ攻囲戦は1624年8月からはじまりました。スピノラは、スペイン・オランダ十二年休戦条約(1609-1621)が明けるとすぐに、ユーリヒ、ベルヘン=オプ=ゾームと、オランダ戦線に復帰します。対するユスティヌスは1601年からブレダの知事職にあり、このときはブレダで籠城中です。ユスティヌスの異母弟たちでもあるオランイェ公マウリッツやフレデリク=ヘンドリクは、街の外からブレダの解放のためやってきた援軍ということになりますが、この間にマウリッツが病気に倒れ死去し、1年もの長い攻囲戦のうちにスペイン側の防衛線も相当な長さになってしまい、解放しようにもどうにも手がつけられなくなってしまった状態にありました。また、ブレダは35年前の1590年の戦いの際も攻囲戦らしい攻囲戦を経験しておらず、住民も籠城に不慣れで、物資不足に持ちこたえられなかったのも敗因のひとつといわれています。

Diego Velázquez - The Surrender of Breda (detail) - WGA24404

『ブレダの開城』(細部) In Wikimedia Commons

「ドン・ユスティヌス、頭をお下げになりませぬよう」『ブレダの太陽』 p.280. 

これは、敗戦側であるオランダが、戦勝側であるスペインにブレダの街の鍵を手渡しているシーン。本来なら、馬上のスピノラにユスティヌスがひざまづいている図になるはずですが、スピノラは下馬し、ユスティヌスの肩に手を置いています。また、スペイン国王の御前での着帽の権利を持つ「大貴族(グランデ)」のスピノラが、敢えて帽子を手に持っていることも指摘されています。スペインの「寛大さ」を表現するため、ともいわれていますが、実際この後、スピノラが略奪を禁じたため、オランダ側は名誉ある撤退をすることができました。

下記の絵画は、同じく1635年に描かれ、現在同じプラド美術館にある『ユーリヒの開城』。やはりブレダと同様に、スペイン側の勝利した1621年のユーリヒ攻囲戦をモチーフにしています。そしてこちらも中心となる人物はスピノラ侯です。ひざまづいたユーリヒ知事から、下馬することなく鍵を受け取っています。本来ならばこれが鍵の受け渡し時の通常の光景です。ちなみに馬上のもう一人(左)の人物はスピノラの娘婿のレガネス侯ディエゴ=フェリペ。

La rendición de Juliers

Jusepe Leonardo (1635) 『ユーリヒの開城』 In Wikimedia Commons

ユーリヒと比べると、いかにブレダでは「親しみ」が強調されているかわかるかと思います。『ブレダの開城』のシーンは「旧友のように」と称されることもあり、確かにスピノラとユスティヌスが顔見知りだった可能性は非常に高いです。1608年、休戦の話し合いのためにスピノラがハーグを訪れた際、オランダ軍総司令のマウリッツとその弟フレデリク=ヘンドリクの2人が、一族のナッサウ伯をぞろぞろ引き連れて郊外のレイスヴェイクまで出迎えに訪れています。彼らの異母兄であるユスティヌスもおそらく同行していたはずです。いずれにしても、スピノラはこの後8ヶ月間ハーグに滞在するので、その間にユスティヌスと一度も顔を合わせなかったというほうが不自然でしょう。

なお、『ブレダの開城』が描き始められた時点(1634年)で既に、両将軍ともこの世の人ではありません。ユスティヌスもスピノラも、この10年のうちに引退や左遷ののち亡くなっています。ただ、ベラスケスは生前のスピノラとは既知の関係だったので、ユスティヌスはともかくスピノラの風貌に関しては、あとからの聞きかじりや画家の想像だけで描かれたものではありません。

ちなみに、『ブレダの開城』で、スピノラと馬の間に居てこちらを見ている、やはり赤の肩帯をしている人物は、ナッサウ伯ヤン八世です。カルヴァン派のナッサウ一族の中にありながらカトリックに改宗し、ハプスブルク軍の将校としてブレダ戦に参加していました。

ところで、この絵の完成の早くも2年後の1637年には、フレデリク=ヘンドリクがブレダを再奪還しています。1625年のブレダ陥落は彼自身にとっても苦いデビューの記憶ですし、オランダ側にあからさまに不名誉に描かれたこの絵に激怒した?…からかどうかはわかりませんが、当時の絵画コレクターの一人としては、少なくともこの絵の存在くらいは聞いているでしょうから、何らかの契機になった可能性も決して捨てきれません。

Breda

Johannes Hinderikus Egenberger (circa 1860) 「ブレダ攻囲戦 (1637)」In Wikimedia Commons

ブレダ知事から鍵を受け取るオランイェ公フレデリク=ヘンドリク。19世紀に描かれたものですが、こちらの再奪還時も「通常」の、馬上での鍵渡しシーンです。

その他

『アラトリステIII』「ブレダの太陽」でも、

  • p.271-283 エピローグ
  • p.284-289 編集者による注解

として、『ブレダの開城』について語られています。「エピローグ」では、けっこうスペイン人の視点でも、否定的な見方がちらほら見受けられます。「編集者による注解」は、ひじょ~にもっともらしく書いてありますが、原作者のウィットといいますか、あくまで創作ですのでそこはお間違えなく!

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • プラド美術館公式サイト The Surrender of Breda or The Lances
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
  • ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
  • フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行―昔日の巨匠たち』 、岩波書店、1999年