ブレダ攻囲戦(1624-1625) Beleg van Breda

Peter Snayers - Bird's eye view of the Breda site

Pieter Snayers (circa 1628) 「ブレダ攻囲戦 (1624-1625)」 In Wikimedia Commons

ブレダ攻囲戦 Breda 1624/8/27-1625/6/2
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯ユスティヌス
オランイェ公マウリッツ(攻囲中に病死)
ナッサウ伯(のちオランイェ公)フレデリク=ヘンドリク
ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール
ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー
ナッサウ=ラレック伯ウィレム
ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク
ポルトガル公マヌエル=アントニオ
ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ
エスピナル侯カルロス・コロマ
ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世
ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク
マラテーア公ゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ
ベルベデーレ侯ルイス・デ・ベラスコ
バルバンソン公アルベール=フランソワ・ファン・アレンベルフ
シメイ侯アレクサンドル・ファン・アレンベルフ ヴァラウー伯(バランソン男爵)
フィリベール・ド・アイ=ラ・パリュ
イーゼンブルク=グレンツァウ伯エルンスト一世
フェリペ・ダ・シルヴァ

2年前のベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦の思わぬ失敗は、スピノラの輝かしい戦歴と名誉とをいたく傷つけた。スピノラはその対価に、ナッサウ家父祖の地ブレダを選ぶ。マウリッツがその持てる知識を惜しみなく注いで強化したこの要塞の街を足場にすれば、スヘルデ川の閉鎖解除にも希望が持てるであろう。35年前の「泥炭船」により不名誉な撤退を余儀なくされたのが、自分と同じイタリア兵だった、ということもスピノラの隠された動機だった。

君の値打ちはフランドルでは/君の不在によって明らかになった/イタリアでは君の死によって/そして、スピノラよ、君は私たちに/耐えられぬ痛みを残した

ドン・フランシスコ・デ・ケベード/アルトゥーロ・ペレス・レベルテ『アラトリステ ブレダの太陽』

経緯

休戦が明け、連邦議会とスペインの間では、秘密裏に休戦の延長または再休戦の交渉も続けられていました。この交渉は双方まったく歩み寄りがなく、その間オランダ軍は、積極的な軍事行動を控え守勢中心の立場を取ります。フランドル軍総司令官のロス=バルバセス侯スピノラ将軍は東部国境地域に陽動作戦をかけつつその実は南部国境の奪取を狙っていましたが、1622年のベルヘン=オプ=ゾームで失敗し、多くの将兵と軍資金を失っていました。またスペイン本国としても、それほどフランドル方面の攻囲戦に乗り気なわけではありませんでした。スピノラは「国王陛下のため」との名目を掲げていますが、むしろそのフェリペ四世その人が、「危険な賭けである」としてブレダの攻囲に前向きではありませんでした。

次にスピノラが狙うのはブレダだ、というニュースは早くから噂され、ブレダでは守備隊を3倍ほどに増強しました(それでも6,000人程度)。周辺の農民はスペイン兵の襲撃を恐れて城内に避難し、もとからの市民を含めると、ブレダの人口は一時的に約13,000人と膨れ上がりました。ブレダ市では9か月分の食料と弾薬を備蓄していましたが、人口が増えたことにより目減りしてしまった計算になります。なお、ブレダ城内にはオランイェ公マウリッツの異母兄でブレダ知事のナッサウ伯ユスティヌスのほか、マウリッツの庶子ウィレムとローデウェイクの兄弟や甥のポルトガル公マヌエル=アントニオなど、親族たちも籠城を続けていました。

それでもスピノラがどこを攻めるのか――東部か、ブレダか、フラーフェか――というのをオランダ側では最後まで把握できず(そもそもスピノラ自身がブレダとフラーフェいずれの攻囲戦が許可になるかを待っていたため)、8/24に執政イザベラの承認を得た時点で、ブレダの攻囲が決定しました。スピノラは腹心のヘンドリク・ファン・デン=ベルフ将軍の軍25,000を陽動としていったん東部国境方面へ向かわせたうえで、25,000の兵でブレダ包囲を始めブレダ南東のヒンネケンに本陣を設けます。

Beleg van Breda 1624 Omgeving Breda

「ブレダ攻囲戦 (1624-1625)」関連地名(右が北です) In Wikimedia Commons

スピノラには、兵糧戦か速攻かの2つの選択肢がありました。自軍も同じ道を辿る危険もありましたが、スピノラは兵糧攻めを選択し、広範なブレダ近郊地域を東西南北4つのエリアに分け、それぞれ4人の部下に陣を張らせその監督下に置きます。また9月24日に陽動作戦から戻ったファン・デン=ベルフ将軍を補給の責任者とし、自軍の糧食調達の際の護衛と、ブレダへの補給路の寸断の両方を任せます。ほか、カトリック教徒でスペイン軍に与するナッサウ一族・ナッサウ伯ヤン八世を本陣で自らの補佐役に任じました。

戦闘

Siege of Breda 1624 - Obsidio Bredaem per Ambriosium Spinolam (anno 1624)

Joan Blaeu (1649) “Atlas van Loon” 「ブレダ攻囲戦 (1624)」 In Wikimedia Commons

スピノラの攻囲戦

ここでスペイン軍は2本の防衛線を建設しはじめます。1本はキャンプの内側、ブレダの街の守備隊からの攻撃を阻むためのもの、もう1本はキャンプの外側、ブレダ解放の援軍の進軍を止めるためのものです。いずれも20kmを越える環状の防衛線となりました。が、オランダ軍と違って、スペイン軍では通常、このような掘削作業を兵士の仕事としていませんでした。そのため、兵士に提示する日当が、スピノラの財政状態をより逼迫させる要因となっていきます。10月、オランダ軍が近郊に展開をはじめてからは、コロマ将軍率いる30,000の予備兵も待機させました。

補給も双方が困難でした。南ネーデルランドではリールに充分な備蓄を持つ穀倉があり、スペイン軍にはそこから主に食料の輸送が行われていましたが、オランダ側からのゲリラ的な攻撃、また、給与が遅れているために自軍の空腹な兵たちの襲撃すらありえました。籠城するブレダ側も、防衛線が未完成なうちの初期段階ではそれなりに物資を得ることができていましたが、それも防衛線の工事が進むにつれ徐々に難しくなっていきます。冬になると、天候理由もあってますます補給は困難となり、栄養不足が原因で、城壁内の人間の約1/3が風邪など何らかの疾病に罹ってしまったともいわれています。

ブレダ解放軍とマウリッツの死

Beleg van Breda 1624 Staats bivak

Claes Jansz. Visscher (1625) In Wikimedia Commons マーデのオランダ軍キャンプとスペイン軍の環状包囲線

東部戦線に展開していたオランイェ公マウリッツは、9月10日、ブレダ方面への進軍を決定し、同月28日にはブレダ北部のマーデ(スペイン軍の北部キャンプ・テルヘイデンの向かい)にキャンプを張りました。スピノラは大急ぎで、テルヘイデンの環状防衛線の増設を指示します。オランダ軍にはデンマークやスウェーデンからも援軍が駆けつけましたが、スピノラの防衛線を破ることができず、徒に時を過ごすだけとなります。

マウリッツは、スペインの補給を何度か妨害する程度では相手に致命的なダメージを与えるには至らないこと、この規模の防衛線を破るためには自軍の兵力が少なすぎることを熟知していました。そのため10月に、補給路の中継地点となるアントウェルペンの占領が二度試みられます。しかしこれは襲撃部隊の隊長の力量不足のためいずれも失敗、10月末には、河口付近のマーデ近郊でのキャンプが冬の天候的に困難との理由で、オランダ軍は10km以上離れた場所に陣を張りなおします。

マウリッツはブレダ到着前から、肝臓の病気と通風に悩まされていました。キャンプでの過酷な環境がその健康を急速に悪化させ、11月には「お願いですからハーグに戻って療養に努めてください、死んでしまいます」と、弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクを筆頭に将校たちが懇願するほどの状態にまでなっていました。年が明け、3月にフレデリク=ヘンドリクをハーグに呼び戻して、愛人アマーリアとの結婚を強要したエピソードは「マウリッツ」「フレデリク=ヘンドリク」の項に書いたとおりです。11月からマウリッツの代理として総指令を務めていたフレデリク=ヘンドリクは、4月中旬、正式に兄から指揮権を移譲されてキャンプへ帰参します。しかしその直後にマウリッツは、「ブレダはどうなった?」と言い残して病死してしまいます。

3月末、総司令官代理の弟に戦場放棄させるほどマウリッツの容態が深刻なことを知ったスピノラは、せめてその懸念材料を払拭させようと、ブレダ城内のユスティヌスにいったん開城交渉を持ちかけました。しかしユスティヌスの立場からすれば、ブレダ陥落を知らせたうえで異母弟を死なせてしまうわけにはいかなかったのでしょう。逆に徹底抗戦の構えをさらに強硬にしたとのことです。

テルヘイデンの戦い

Beleg van Breda 1624 - Staatse aanval op Terheijden

Jacques Callot (17th century) 「テルヘイデンの戦い」 In Wikimedia Commons

何としても状況を打開したい新司令官フレデリク=ヘンドリクは、議会から総攻撃の許可を得てきていました。フレデリク=ヘンドリクはヘールトライデンベルフに46,000の大軍を集めます。包囲軍のどこを攻める気なのか、補給路への攻撃か、それとも全く別の街を攻めるのか、スピノラはその意図を測りかねつつも、コロマ将軍の予備兵で軍備増強を図りました。

5月15日、傭兵隊長マンスフェルト伯を陽動のためブレダ東のスペイン守備隊に当たらせ、フレデリク=ヘンドリクはイングランド軍司令官ホレス・ヴィアー率いる6,000の兵に、ブレダ北部テルヘイデンのスペイン守備隊を急襲させます。この北側のキャンプを占領してブレダ城内への補給路を確保し、あらかじめ西部の川沿いに展開しているナッサウ伯エルンスト=カシミール将軍から速やかに補給物資を運び込むという作戦です。しかしこれは、機転を利かせた他キャンプのスペイン守備兵が援護に駆けつけたために、あと一歩のところで失敗に終わってしまいました。

それでもフレデリク=ヘンドリクによるこの襲撃が、自身の防衛線に絶対の自信を持つスピノラに与えた衝撃は大きく、さらに防衛線の兵力が増強されることになります。フレデリク=ヘンドリクがマウリッツの薫陶を受けてきたことは知られていましたが、それまで決して将軍として目立った活躍はしていなかったため、その能力は未知数とされていました。 小説『アラトリステ ブレダの太陽』でも、このテルヘイデンでのヴィアー隊との戦いが、最後の戦闘シーンとして描かれています。

5月24日、これ以上の攻撃は不可能と悟ったフレデリク=ヘンドリクは、降伏条件が有利な段階での開城を決意し、籠城中の異母兄ユスティヌスにその旨手紙を書きました。ユスティヌスはその回答として、夜に11本の松明を灯します。あと11日分の糧食しか残っていないという合図です。そのため降伏の日は6月5日と定められました。

これを見て城内の食料状況を理解したスピノラは、オランダ側からの和平の申し出を待たず、ユスティヌスに宛てて書簡を送ります。が、総司令官の許可を得ずに城内にスペインの使者を入れるにはいかないとして、城門から中へは決して入れてもらえません。そんなやりとりが3度続き、「城外のテントにおいて、使者はファン・デン=ベルフ将軍(フレデリク=ヘンドリクとユスティヌスの従兄弟にあたる)なら」、という条件で交渉が始まります。信教の自由という一点だけを除いた全ての条件が受け入れられ、6月2日の調印ののち、5日にオランダ軍はヘールトライデンベルフへ名誉ある撤退をおこないました。

余波

De overgave van breda Velazquez

ベラスケス(1634-35)『ブレダの開城』 In Wikimedia Commons

ユスティヌスは連邦議会から労をねぎらわれた後、翌々年のフロール攻囲戦を最後に、老齢を理由に引退してレイデンに隠居します。スピノラもそれ以上に本国で多大な栄誉を得ますが、それは一時的なものでした。ブレダ攻囲の最中既にスペイン本国では、費用のかかりすぎるフランドル方面の攻囲戦を今後おこなわない方針を決議しており、スピノラ自身もイタリアへの転戦を命じられます。マウリッツとスピノラ、2人の司令官にとって、ブレダがフランドル戦線の最後の舞台となったわけです。

逆にフレデリク=ヘンドリクはこのブレダの反省から、1627年、1629年と相次いで大規模な攻囲戦を成功に導きます。共和国は文化と経済のいわゆる黄金時代に入っていきますが、戦争に関してはより費用のかさむものとなっていき、国庫の負担も年々増え続けていきました。

ブレダはその後12年間スペインの手にありましたが、1637年、フレデリク=ヘンドリクによって再度オランダ側に奪還されることになります。

La infanta Isabel Clara Eugenia en el sitio de Breda (Museo del Prado)

Pieter Snayers (17th century) 「ブレダ攻囲戦 (1624-1625)」 In Wikimedia Commons

冒頭の絵画の、大公妃イザベラが居るバージョンはこちら。右下の馬車の中にイザベラが居り、おそらくその前で白馬に乗る人物がスピノラ将軍です。 その他のブレダ攻囲戦関連記事はこちら。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • エミリオ・オロスコ(吉田彩子 訳)『ベラスケスとバロックの精神』、筑摩書房、1983年
  • 『歴史群像』2007年02月号
  • 『週間アートギャラリー ルーベンス』24号、1999年
  • アルトゥーロ・ペレス・レベルテ『アラトリステ<3>ブレダの太陽』、イン・ロック、2007年

日本語文献

「ベラスケス」「プラド美術館」に関する図録などの美術系書籍なら、大抵は『ブレダの開城』について、多少の説明文が書かれていると思います。但し、あくまでも絵画や美術としてのアプローチです。

軍事史としての側面からこの攻囲戦を取り上げたものは、上記の『歴史群像』のみと思われます。絵画の有名さに反して、ブレダ攻囲そのものの経緯を説明したものはほとんど美術史側からは得られないため、貴重な情報源といえるでしょう。もちろん、この戦いをモチーフとした小説『アラトリステ ブレダの太陽』の詳しさに敵うものはありません。