ブレダ攻囲戦(1637) Beleg van Breda

Uittocht Spaans garnizoen uit Breda in 1637 door Hendrick de Meijer

Hendrik de Meijer (after 1640) In Wikimedia Commons 「スペイン守備隊のブレダからの撤退 (1637)」

ブレダ攻囲 Breda 1637/7/21-10/11
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_br.gif ブランデンブルク

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム
ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク一世カシミール
ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク
ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ=ヴィルヘルム
ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト
ドートリーヴ侯フランソワ・ド・ローベスピーヌ
 
シャティヨン卿モーリス
ブイヨン公フレデリク=モーリス
ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン二世アルプレヒト
枢機卿王子フェルナンド

12年前の苦い敗北の後、結局フレデリク=ヘンドリクはスピノラと直接対峙することはなかった。満を持して挑むブレダの攻略は、偉大な2人の先人、かつてこの街を陥落させたスピノラと、この要塞建築を自身の最高傑作とした兄マウリッツとを越えることを意味する。そしてフレデリク=ヘンドリクは、「都市奪還者」の渾名に最もふさわしいこの街で、名実共にその目的を達成する。

スピノラは11ヶ月かかった。なら僕は11週で陥としてみせよう。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/ Prinsterer, “Archives”

経緯

1635年、かねてよりリシュリュー枢機卿とオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの間で話が進められていたとおり、オランダと対スペイン同盟を結んだフランスは三十年戦争に介入しました。南ネーデルランドのフランドル執政府にとっては、南北からの挟み撃ちの格好です。1634年の枢機卿王子フェルナンドによるネルトリンゲンの勝利、1635年のプラハ条約と、ドイツ・ハプスブルクの勝利に追い風を受けていたスペインの前に、ここで信教を同じくする隣国フランスが立ちはだかることになります。フランスから、フランス⇔南ネーデルランド国境沿いの戦線にはコリニー=シャティヨン元帥ガスパール三世(フレデリク=ヘンドリクの従弟)が投入され、スペインも枢機卿王子をフランス側に転向させざるを得なくなりました。

このような経緯から、オランダ共和国⇔南ネーデルランド国境のスペイン側の兵力は著しく低下することとなります。この機を捕らえたフレデリク=ヘンドリクは、18,000の軍でブレダに向かい、近郊のヒンネケンに陣を張りました。ブレダはもちろん地理上の重要地点ではありますが、この街の奪還に関しては、フレデリク=ヘンドリクの個人的な動機が非常に大きかったようです。

12年前の攻囲戦とは、メンバーがほぼ一新しています。オランダ軍では、先のオランイェ公マウリッツはもちろんのこと、ブレダ知事のユスティヌス、エルンスト=カシミール元帥、英軍のホレス・ヴィアー将軍は既に亡く、主力はエルンスト=カシミールの長男ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミールら第三世代の若手に世代交代しています。スペイン軍側も、故スピノラ将軍は『ブレダの開城』に描かれるほどの「過去の英雄」扱い、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世はこのときはお家騒動でドイツに釘付け、ファン・デン=ベルフ将軍に至っては5年前にオランダ軍に転向のうえ軍人を引退しています。

なお、オランダ側のナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムは、ヤン八世の11歳年下の実弟で、元帥として中堅世代を担っています。後のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムはまだ成人前のため、盾持ちとしての参戦でしょうか。フランス連隊内に見られる「シャティヨン」の名は、ベテランのドートリーヴ侯の下に置かれていること、ガスパール三世元帥がフランス戦線に繋っていることをみても、その長男モーリス(翌1638年からフランス元帥)のことと思われます。フランス連隊には、1635年の宣戦布告にともなってルイ十三世の元帥となったブイヨン公フレデリク=モーリス(後のテュレンヌ大元帥の兄)の名もあります。

戦闘

Siege of Breda in 1637 by Frederick Henry - Breda Obsessa et Expvgnata (J.Blaeu)

Joan Blaeu (1649) “Atlas van Loon” 「ブレダ攻囲戦 (1637)」 In Wikimedia Commons

フレデリク=ヘンドリクのブレダ攻略法は、防御に重きを置き長時間かけたスピノラ将軍の方法とは対象的に、拙速ともいえる攻撃的なものでした。まずはヘンドリク=カシミール将軍に騎兵を預けて各所を奇襲させ、周辺の砦を押さえます。次に他の攻囲戦同様、イングランド兵とフランス兵を競わせて、ブレダ南側にある本陣からブレダの城壁まで2本の塹壕を掘らせます。本陣のヒンネケンは、12年前にスピノラ将軍が本陣を置いた場所とほぼ同じ場所でした。同時に、ブレダの南北にそれぞれヘンドリク=カシミール将軍とウィレム元帥のキャンプを置き、そこからも塹壕を掘らせていきます。

この攻囲中の戦闘の大半が砦の内と外とによる火器での戦闘で、100人規模の白兵戦すらほとんどありません。それでも大砲や地雷に巻き込まれ、相当の損害が双方に出ました。防御側は塹壕を掘りながら近づいてくる敵に向かって、銃や手榴弾で攻撃します。オランダ側も銃で応戦しつつ、坑道に仕掛けた地雷を爆発させます。8月27日にフランス兵が、翌8月28日にはイングランド兵が城壁に到達し、地雷で突破口を開いたうえで、9月1日にヒンネケン門を占拠しました。

それからなお1ヶ月ほどスペイン兵は抗戦を続けましたが、10月6日に開城が宣言されます。11日、調印が済むとスペイン兵はメヘレンに撤退することになりました。

余波

Vriendschappelijke ontmoeting van Spaanse en Hollandse soldaten tijdens een wapenstilstand bij het beleg van Breda door prins Frederik Hendrik (Jan Luyckyen, 1698)

Jan Luyken (1698) ブレダ攻囲戦時の英西両軍の交友 In Wikimedia Commons

この絵は開城から60年以上後のものですが、和平後(10/6から10/11までの間でしょう)のオランダ・スペイン双方の兵を描いたものです。互いに健闘をねぎらいあって、談笑しながら飲食を共にしています。70年前の「反乱」の頃から比べると、かなり時代が変わった感があります。この後、スペイン軍は「軍旗を立て、ドラムを鳴らし、弾丸を携帯したまま」という、最大級の名誉で撤退しました。

かといって、戦争の相手はあくまで「敵」です。ブイヨン公は開城交渉中に「スペイン軍に接近しすぎた」罪で、今後一切のオランダ共和国軍内での地位を剥奪されました。オランダ軍総司令官の甥という立場を鑑みても、相当に厳格な措置です。ブイヨン公はこの攻囲戦ののち同年中にはカトリックに改宗し、かつてのフランス・ユグノーの一大中心地であった領地セダンもカトリック化してしまいました。この後しばらくは、カトリックの多いマーストリヒトの知事職を与えられてオランダに留まるものの、フランスに帰国した1641年以降は親スペイン派として「サン=マールの陰謀」や「フロンドの乱」で中心的な役割を担い、リシュリュー枢機卿、マザラン枢機卿、そしてフランス王権に対して、次々に弓を引くことになります。

ところで、計算してみると攻囲開始から開城までは11.7週間です。フレデリク=ヘンドリクの掲げた「11週での陥落」はほぼ有限実行といえるでしょう。また、1625年の攻囲戦に比べると、兵力も半分以下で済んでいます。

しかしオランダ側の完全勝利というわけでもありませんでした。攻囲戦中の8月末、いったん枢機卿王子は17,000の兵でブレダ救援に駆けつけるものの、環状防衛線の突破が難しいとみるとそのまま兵を還し、代わりにマース側沿いのフェンローとルールモントを陥落させています。枢機卿王子はこれによってマーストリヒトの孤立と、オランダが東部からフランスに援軍を送るルートの寸断に成功しました。また、ブレダ陥落後、共和国はライン川沿いの要衝ラインベルクもスペイン側に奪取されています。1632年、1633年の遠征の成果の大部分が失われてしまったと言って良いでしょう。

それでも、蘭・仏それぞれあまり芳しい成果の出ていない中、ナッサウ家のフラッグ・シティともいうべきブレダの奪還は、その東部でのロスを補って余りあるプロパガンダ材料として格好のものでした。「オランダによるブレダ再奪還」はフェリペ四世の威信に大打撃を与え、そのフランドルにおける地位を揺るがすものと受け取られました。また、1627年のフロールや1629年のスヘルトヘンボスの頃と比べても、フレデリク=ヘンドリク自身の攻囲戦術にも危なげや隙は無く、このブレダ攻囲戦は彼の戦術のひとつの頂点といっても良いでしょう。

その他のブレダ攻囲戦については下記を参照ください。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Guthrie, W.P., The Later Thirty Years War, 2003
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Kikkert, “Frederik Hendrik”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Prinsterer, “Archives”
  • Picart, “Memoires”