ドートリーヴ侯フランソワ・ド・ローベスピーヌ François de L’Aubespine

François de l'Aubépine, marquis d'Hauterive (Daniel Dumonstier)

Daniel Dumonstier (1600-1625) In Wikimedia Commons

  • ドートリーヴ侯 Marquis d’Hauterive、シャトーヌフ男爵 Baron van Châteauneuf、ブレダ知事 Gouverneur van Breda
  • 生年: 1586/3/1 ?(仏)
  • 没年: 1670/3/27 パリ(仏)

生涯

フランソワは文官の家系に生まれたものの、志願してオランダで軍人となりました。ちょうどナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクやコリニー=シャティヨン卿ガスパール三世と同世代であり、彼らとキャリアを比較していくと面白いです。

オランダで従軍するベテューヌ連隊の将校のひとりとしてフランソワの名前が記録にあがっているのは、1610年のユーリヒ=クレーフェ継承戦争の頃のようです。フレデリク=ヘンドリクの従弟のガスパール三世が、血縁(コネ)から、その5年も前からフランス連隊の連隊長をしていたことをみても、若干差があります。

フレデリク=ヘンドリクがオランイェ公となって以降、1627年のフロール攻囲戦ではスペイン軍とのネゴシエーターともなりました。5年後のマーストリヒト攻囲戦では、再度将校として参戦しています。いずれもガスパール三世も参加しているものですが、フレデリク=ヘンドリクは従弟のガスパール同様にフランソワも重用し、1639年には、2年前に再奪還したばかりのブレダの知事をまかせるほどでした。というのも、2人ともユグノーなのにもかかわらず、ガスパールはリシュリュー枢機卿の信頼が厚く、フランソワは反リシュリューとして知られていました。仏蘭条約に伴う対スペイン共同作戦で、フレデリク=ヘンドリクはリシュリュー相手に二枚舌外交を続けていましたが、親交を結ぶフランス人将校もこのように両派を揃えて外交のカードとしていたようです。

それでもフランソワが軍人としての地位を手に入れたのは遅く、1644年になってやっと連隊長です。ガスパールとは実に40年の差がついたことになります。その後フランスに帰国しフランス軍の将軍にもなりました。

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