ブイヨン公フレデリク=モーリス・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Frédéric Maurice de La Tour d’Auvergne-Bouillon

Frédéric Maurice de la Tour d'Auvergne, duke of Bouillon, painted by Johann Valentin Tischbein, ca 1750

Johann Valentin Tischbein (ca 1750) In Wikimedia Commons

  • ブイヨン公 Duc de Bouillon, フランス元帥 Maréchal de France
  • 生年: 1605/10/22 セダン(仏)
  • 没年: 1652/8/9 ポントワーズ(仏)

生涯

フランス元帥ブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュとエリーザベト・ファン・ナッサウの長男。ウィレム沈黙公の外孫にあたります。両親の影響でユグノーとして育ちました。1621年、おじのオランイェ公マウリッツ、フレデリク=ヘンドリクのもとへ軍事を学びに行き、2年後父の死に伴ってブイヨン公を相続しました。1625年に弟のテュレンヌもオランダへやって来ますが、彼が1630年に帰国してもしばらくオランダに留まり、1629年のスヘルトヘンボス、1632年のマーストリヒトなど、フレデリク=ヘンドリクの有名な戦争に参加しました。

しかし1634年、カトリックの女性と結婚したことがきっかけでカトリックに改宗し、翌年にはフランスへ帰国して、ルイ十三世の軍でフランス元帥となります。さらに1637年にはオランダの敵であるスペインと接近したため、オランダでのすべての軍事的地位を剥奪されました。法王イノケンティウス十世の軍で指揮を執ったこともあり、神聖ローマ皇帝フェルディナント三世とも個人的な親交がありました。

セダン公国はもともと、先のセダン領主(マルク家)がユグノーに改宗したのをきっかけにフランスから独立公国となった国です。プロテスタント諸侯の子弟を預かるアカデミーをもち、迫害されたフランスユグノーやドイツプロテスタントの一大避難地でもありました。フレデリク=モーリスは改宗後もプロテスタントには寛容で、受け入れは続けていました。また、ユグノーに限らず、現王権対する不満分子も集まってくるようになりました。このこともあり、彼自身もフランス王権に対して相次いで弓を引くことになります。

  • 1641年 ギーズ公アンリ二世、ソワソン伯ルイと共に反リシュリューの陰謀(ラ・マルフェの戦い)
  • 1642年 サン=マール侯と共に反リシュリューの陰謀(サン=マールの陰謀)
  • 1650年 弟テュレンヌと共に反マザランの陰謀(第二次フロンドの乱)

これらはいずれもリシュリューやマザランに懐柔されるかたちで解決をみましたが、1642年にはセダン公国がフランスに併合されるなど、陰謀のたびに領地のいくつかを失いました。1652年死去。

ブイヨン公を継いだ長男のゴドフロワ=モーリスは、マザランの姪(マザリネット)の末娘マリー=アンヌと結婚しています。

アレクサンドル・デュマ『二十年後』(『三銃士』の続編)では、後半のクライマックス、フロンドの乱のシーンでフレデリク=モーリスも登場します。とはいえ、既に通風がかなり悪化して歩くこともできない状態です。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。ヘンティは小説。

  • 長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』 講談社選書メチエ、2002年
  • G.A. Henty Won by the Sword, 1900