大選帝侯フリードリヒ一世ヴィルヘルム Friedrich Wilhelm I von Brandenburg

Frans Luycx - Frederick William, Elector of Brandenburg, at three-quarter-length

Frans Luycx (ca. 1650) In Wikimedia Commons

  • ブランデンブルク大選帝侯 Friedrich Wilhelm I, Kurfürst von Brandenburg, Herzog von Preußen, ‘Große Kurfürst’
  • 生年: 1620/2/16 ベルリン近郊(独)
  • 没年: 1688/4/29 ポツダム(独)

生涯

母はプファルツ選帝侯フリードリヒ五世の妹エリーザベト=シャルロッテ、つまり祖母がルイーゼ=ユリアナ・ファン・ナッサウ。ウィレム沈黙公の曾孫ということになります。少年期、1634年からオランダのレイデン大学で教育を受け、母の叔父にあたるオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの宮廷やアルンヘムの居館に暮らしました。その時の縁で、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツとは(割と年齢差はありますが)生涯にわたる友情を結びます。この4年間が後の領国の統治に与えた影響は大きく、常備軍の整備、通商、造船業などに生かされました。1638年、本人の意に反して父親に呼び戻され、2年後に父が亡くなると選帝侯位とプロイセン公を継承します。

スウェーデン女王クリスティーナに求婚したものの宗教的な理由で断られ、1646年、フレデリク=ヘンドリクの長女ルイーゼ=ヘンリエッタと結婚します。また翌年、ブランデンブルクの持つラインラントの領地の代官に、友人ヨハン=マウリッツを任命しました。ヨハン=マウリッツはブラジル総督時代の実績をもとにクレーフェの街づくりをすすめ、フリードリヒ=ヴィルヘルムもその文化・技術・建築などの手法に留まらず、宗教的寛容の精神をもブランデンブルクの治世に取り入れていきます。

このような個人的な関係が、国同士の関係をも強固にし、ブランデンブルクとオランダの関係は、これ以前よりもかなり緊密になることになります。このことで、フリードリヒ=ヴィルヘルム自身も後にはウィレム三世の後見人の一人となり、さらに1672年以降のオランダ戦争の際には、オランダの同盟国としてフランスやスウェーデンと戦いました。

* 各国元首その他オランダ以外を主要な活躍の場としている人物については、サイトの主旨上、オランダと直接関わった事項または八十年戦争(三十年戦争)期間中の行動について記載しています。そのため逆に、その人物の大まかな伝記ではあまり出てこないエピソードがメインになることもあるかもしれません。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • 友清理士『イギリス革命史(上)―オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』研究社、2004年
  • 1911 Encyclopædia Britannica