ブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯ゲオルク Georg von Braunschweig-Calenberg

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Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

    • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 Herzog von Braunschweig und Lüneburg、カレンベルク侯 Fürst von Calenberg
    • 生年: 1582/11/17 ツェレ(独)
    • 没年/埋葬地: 1641/4/2 ヒルデスハイム/ツェレ・聖母マリア教会(独)

生涯

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヴィルヘルムの五男。若年期はオランダのナッサウ伯マウリッツの軍(1604-)をはじめ、スピノラ侯の軍(1606-)、フランス(1608-)、イタリア(1610-)と短期間で所属を変えながら軍略の勉強をし、1611年はじめて中隊長として軍を率い、カルマル戦争に従軍しています。1617年にいったん領地のうちグルーベンハーゲンの継承が認められ、拠点としてハルツベルク城を得ました。

小領地の経営だけでは飽き足らないゲオルクは、三十年戦争が始まると傭兵としてスウェーデン軍に仕官し将軍の職を得ます。国王グスタフ二世アドルフの戦死後もその宰相のオクセンシェルナとの関係が良かったため、スウェーデン軍の指揮を委譲されました。(オクセンシェルナとは文芸サークルにも一緒に入るほど懇意だったようです)。

しかしプロテスタント側が劣勢となり、1635年には皇帝主導でプラハ条約が締結されます。ゲオルクはヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム五世、ライン宮中伯カール=ルートヴィヒと並んで最後までこの条約に署名を拒否したひとりでしたが、親族からの忠告もあり、領地の防衛に足る程度の軍を残してこれ以降傭兵稼業からは足を洗ってしまいました。ちょうどこの頃、フリードリヒ=ウルリヒを最後としてブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの血統が絶え、その領地を従兄のアウグスト二世と分割し、カレンベルクとゲッティンゲンを得ました。カレンベルク侯となってから、首都をハノーファーに移転しています。

なお、ゲオルクの直系の孫で同名のゲオルクが、後にハノーファー選帝侯を経てイングランド国王ジョージ一世として即位することになります。

リファレンス