ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップ Philipp von Hohenlohe-Neuenstein

Filipsvanhohenlohe

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯 Graf von Hohenlohe-Neuenstein
  • 生年: 1550/2/17 (独)
  • 没年/埋葬地: 1606/3/6 エイセルステイン(蘭)/エーリンゲン・聖ペトロ&パウロ聖堂参事会教会(独)

生涯

ドイツ出身の軍人で、ルートヴィヒ=カジミールの三男。母はゾルムス=リッヒ家の出なので、ゾルムス伯ゲオルグ=エバーハルトとは6親等くらいの遠い親戚にあたります。また、家督を継いだ兄ヴォルフガングの妻が、ウィレム沈黙公の妹のマグダレーナです。

1575年頃から、オランイェ公ウィレム一世の軍で戦うようになり、ホラント州の副司令官として数々の戦闘に参加しました。上記のとおりホーエンローエ家は名門であり、同じくナッサウ家が過去に神聖ローマ皇帝を輩出した名門であったとしても、その時点でのウィレムは財産も取り上げられた一反逆者に過ぎず、フィリップ自身は彼の部下であるつもりはさらさらなく、同列であるとみなしていたようです。さらに性格はかなり粗暴で無分別、酒乱でもありました。1584年にウィレムが暗殺され、1587年にレスター伯がイングランドに帰国すると、連邦議会は陸海軍総司令官にホーエンローエではなく、若年で経験も少ないウィレムの次男、若干18歳のナッサウ伯マウリッツを立てました。

当然ホーエンローエにとってはこの人事は面白くなく、また、マウリッツにとっても口の軽いこの将軍は信用に値しない人物でした。この二人の仲は非常に悪く、キャンプ内で両者とも酔ったときには決闘騒ぎになることもしばしばで、なんとかオルデンバルネフェルトなどが間に入って仲裁していたようです。蛮勇を恃みとする傭兵気質のホーエンローエと、組織戦を志向するマウリッツとの間には戦略的な共通点もなく、ホーエンローエは無茶な夜討をしかけては失敗し、マウリッツも次第に彼の軍に、前線での砦建設などの危険な仕事しか与えなくなっていきました。実際、ホーエンローエの軍事的な成功は、1597年のトゥルンハウトでの偶発的な勝利が最後であり、1600年のニーウポールトの戦いには、遠征への参加すら認められていません。

マウリッツの姉妹たちをめぐる問題も、両者の不仲に拍車をかけています。ウィレム存命中の1582年に、ホーエンローエはウィレムの長女マリアとの結婚の約束を取り付けていましたが、経済的な問題で先延ばしにされていました。1590年にナッサウ家の所領であるブレダをマウリッツが奪還したことによって経済的には解決をみましたが、当のマウリッツの強硬な反対もあり、さらに結婚は先延ばしにされました。最終的には、ウィレムの遺産について連邦議会が調停を試みることで、1595年になってやっと結婚の運びとなりました。また、マウリッツの全妹のエミリアがポルトガル王の庶子マヌエルと駆け落ちして勘当を受けた際も、ホーエンローエは自分が所有していたデルフトの屋敷をこの夫婦に提供しています。

ニーウポールト後、公職からもはずされたホーエンローエはビューレンで妻のマリアと共に暮らしましたが、ともに高齢での結婚となってしまったため子供はなく、1604年頃から病気がちになり2年後に死去しました。

リファレンス

  • ADB
  • Motley, “United Netherlands”
  • Kikkert, “Maurits”