プファルツ選帝侯フリードリヒ五世 Friedrich V von der Pfalz

Friedrich V. von der Pfalz bis

Michiel Jansz. van Mierevelt (1628-32) In Wikimedia Commons

  • プファルツ選帝侯 Kurfürst von der Pfalz, ボヘミア「冬王」König von Böhmen, ‘Winterkönig’
  • 生年: 1596/8/16 ダインシュヴァング(独)
  • 没年/埋葬地: 1632/11/29 マインツ(独)/セダン(仏)?(不明)

生涯

プファルツ選帝侯フリードリヒ四世とルイーゼ=ユリアナ・ファン・ナッサウの長男。ウィレム沈黙公の外孫にあたります。1604年頃、伯父であるブイヨン公アンリのセダンの屋敷で教育を受けたこともあり、彼自身もカルヴァン派として育ちました。1610年、父四世の死により選帝侯位を継ぎ、2年後の1612年には、イングランド王女エリザベス・ステュアートとの婚約に際して渡英し、ガーター勲章を得ています。(これは伯父であるナッサウ伯マウリッツと同時叙勲でした。プファルツへの帰り道、ナッサウ伯たちがドイツまで彼らを送ってくれています)。翌1613年2月14日に結婚。夫婦仲は大変良かったようです。彼の宮廷の侍従長を務めていたのが、従兄にあたるヨハン=アルプレヒト一世・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスです。その娘のアマーリアがエリザベスの侍女となりましたが、このアマーリアが将来オランダでオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの妃になることになります。

フリードリヒは、父四世が創設したカルヴァン派等族の「連合 Union」のメンバーでもあり、1619年その推挙でボヘミア王として戴冠しました。これに対して皇帝フェルディナント二世はスペインとバイエルン公の援助で軍を送り、1620年の「白山(ヴァイセンベルク)の戦い」で敗れたフリードリヒは王位を追われ流浪の身となりました。わずか1年足らずの治世だったため、「冬王」と呼ばれます。その後本国のプファルツにも侵攻を受け、最終的には1623年にプファルツ選帝侯位も剥奪されてしまいます。この間、「連合」のドイツ諸侯、デンマーク、親戚筋のオランダ、そして義父のイングランド、とすべての国の援助が充分に得られませんでした。

フランスのセダン等各地を転々とした後、フリードリヒ一家は1621年冬にオランダに亡命し、そのままハーグで余生を過ごすことになります。皇帝との選帝侯位復位のための交渉は難航し、武力で取り戻そうにも、フリードリヒが自ら呼びかけた軍では皇帝軍にまったく太刀打ちできませんでした。逆に、のちデンマーク王やスウェーデン王が三十年戦争に参戦した際には、フリードリヒの側がその要請に呼応しなかったこともあり、時機をとらえることができませんでした。このように政治的・軍事的な試みはことごとく失敗し、結局彼自身の復位はかなわないことになります。

1629年1月、オランダ西インド会社船がスペイン船を拿捕したというので、フリードリヒは長男フリードリヒ=ハインリヒと一緒にアムステルダムへ見物に出かけました。が、ハールレム付近で乗っていた小船が転覆して、息子は溺死し、フリードリヒ自身も肉体的・精神的にひどくダメージを受けてしまいます。さらに1632年10月フリードリヒは、ドイツ遠征中のスウェーデン国王グスタフ二世アドルフとの交渉が失敗してミュンヘンからハーグへ帰る途上、マインツで伝染病(ペスト)に罹ってしまいました。軽いものと思われたものの、その直後の翌月、グスタフ二世アドルフがリュッツェンの戦いで戦死した報を聞き、その失意もあってかまもなく死亡しました。一般的にはマインツで死亡したとされていますが、バッハラッハ、またはダルムシュタットなどの説もあります。いったん遺体はフランケンタールに葬られ、進軍中のスペイン兵から逃れるためカイザースラウテルンに移されましたが、それ以降の所在は正確にはわからなくなってしまったようです。

プファルツ選帝侯位が彼の次男カール=ルートヴィヒに回復されるには、その12年後の1648年のウェストファリア条約まで待たねばなりませんでした。

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