ゾルムス=リッヒ伯ゲオルク=エバーハルト Georg Eberhard zu Solms-Lich

Emanuel van Meteren Historie ppn 051504510 MG 8774 georgius eberard

Simeon Ruytinck (1614) In Wikimedia Commons

    • ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ伯 Solms-Hohensolms または ゾルムス=ミュンツェンベルク伯 Solms-Münzenberg、ベイエルラント卿 Heer van Bijerland
    • 生年: 1563/7/30 ホーエンゾルムス(独)
    • 没年/埋葬地: 1602/2/23 ヒルシュベルク(独)/リッヒ(独)

生涯

次男として生まれ、母はコンラッド・ゾルムス=ブラウンフェルス伯の妹。つまり下記のヨハン=アルプレヒトやエルンストは母方の従兄弟にあたります。20歳ころ、1583年には既にオランダに渡って軍務についていたようで、オランイェ公ウィレム一世時代を知る古参の将校となります。ウィレムの死後は、レスター伯のもとイングランド軍に加わって、1587年のデフェンテルやズトフェンの戦いに参加しました。1590年のブレダ以降はナッサウ伯マウリッツの軍隊で中心的な役割を果たし、1591年にフルスト知事、1596年には連隊長の地位を与えられています。1600年ニーウポールトの戦いでは、三軍に分けたオランダ軍の中央軍を率いて戦いました。その経験を買われ、連邦議会の費用で、援軍の傭兵としてたびたびドイツに出稼ぎしていたようです。詳細はわかりませんが、1602年、ケルン選帝侯の特使として皇帝ルドルフ二世に会うためプラハに向かっていたところ、ハイデルベルク近郊で急死しました。

1595年には、エグモント伯ラモラールの娘である1歳年上のサビーナと、デルフトで結婚しています。妻の領地であるベイエルラント卿を名乗りました。家柄の違いを考えると、けっこうな逆玉。ゲオルク=エバーハルトが戦死したとき、周囲が「死んでしまうのでは」と心配するほど、サビーナは悲しみで憔悴しきってしまったそうです。現在は決して有名とはいいがたい人物ですが、マウリッツの信頼も厚く、当時はかなり尊敬された将軍のひとりだったようです。声が大きく、お喋りなのが玉にキズ。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”[
  • ADB

ゾルムス=レーデルハイム伯フリードリヒ Friedrich zu Solms-Rödelheim

F Brentel - Graf Friedrich von Solms-Rödelheim Gouache 1629 (RdSW.C63)

Friedrich Brentel (1629) In Wikimedia Commons

  • ゾルムス=レーデルハイム伯 Solms-Rödelheim
  • 生年: 1574/11/30 レーデルハイム(独)
  • 没年: 1635/9/15 ストラスブール(仏)

生涯

ヨハン=アルプレヒト一世の妻の従兄弟という遠縁のゾルムス伯。1600年前後にオランダにやってきて、ニーウポールトの戦いに将校として参加した記録が残っています。1600年のニーウポールトの戦いでは、「3人のゾルムス伯」が参戦しました。ゲオルク=エバーハルト、フリードリヒ、そして最後までわからなかったもう1名が、フリードリヒの2歳下の弟ゾルムス=ラウバッハ伯アルプレヒト=オットーです。

1608年以降は、ハンザ諸都市に傭兵として雇われました。オランダ式築城術の専門家を連れていたため重宝されたようです。1610年にはユーリヒ=クレーフェ継承戦争に、1615年にはブラウンシュヴァイク家とブラウンシュヴァイク市の抗争に介入しています。弟アルプレヒト=オットーはユーリヒ=クレーフェ継承戦争のブライテンベントの戦いで戦死しました。

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