ダウン=ファルケンシュタイン伯父子(ヴィリヒ六世/ヨハン=アドルフ) Graf von Daun-Falkenstein

Daun-Wappen OH

In Wikimedia Commons

ユーリヒ=クレーフェ=ベルクの貴族。彼らの領地ミュルハイムとブロイヒ城は八十年戦争のとばっちりに何度も巻き込まれてしまっています。

ダウン=ファルケンシュタイン伯ヴィリヒ六世 Wirich VI von Daun-Falkenstein

Mord an Wirich 1598

Jan Luyken (1698) In Wikimedia Commons

  • ファルケンシュタイン伯 Graf von Falkenstein、ブロイヒおよびビューゲル卿 Erbe Herr von Broich und Bürgel
  • 生年: 1542 ブロイヒ?(独)
  • 没年: 1598/10/11 ブロイヒ(独)

生涯

カルヴァン派の貴族で、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム五世の外交官。外交官、とはいっても、ヴィルヘルム五世の娘たちの結婚のための介添人や、近隣のカルヴァン派貴族の結婚の取り持ちなど、仲人っぽいことばかりやらされている気がします。そのため、周囲のカルヴァン派貴族たちの代弁者のような役割も担っていました。

1578年頃から、ライン地方にも八十年戦争が飛び火してきます。ヴィリヒ六世は領地の防備に務め、帝国会議でもライン地域の保全を求めました。

1598年から1599年にかけて「スペインの冬」と呼ばれる事件が起こります。1597年、オランダのナッサウ伯マウリッツによる「1597年遠征」で多くの都市を失ったスペイン軍は、メンドーサ提督に命じて、ライン地域にそのリベンジのための軍を出していました。メンドーサ提督は周辺の街を略奪して周り、ブロイヒ城も包囲されます。ヴィリヒ六世は降伏を決め、スペイン軍は領主と住民の安全な撤退を約束しましたが、10月6日、城門を出たところで住民数百人が虐殺され、ヴィリヒ六世は捕虜となりました。そして10月11日、ヴィリヒ六世は城の郊外で謀殺されてしまいます。捕虜から解放すると騙し、さらにその遺体を焼き捨てたとして、スペイン軍の暴虐は激しく非難されました。

ところでヴィリヒ六世は三度結婚しており、二番めの妻が亡くなると、その年の離れた従妹アンナ=マルガレータと再婚します。「スペインの冬」で寡婦となったアンナ=マルガレータは1601年、ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテルと再婚しますが、その結婚資金は前夫ヴィリヒ六世の仇メンドーサ提督の身代金、というめぐり合わせになっています。

リファレンス

  • ADB
  • NDB
  • Motley, “United Netherlands”

ダウン=ファルケンシュタイン伯ヨハン=アドルフ Johann Adolf von Daun-Falkenstein

  • ファルケンシュタイン伯 Graf von Falkenstein、ブロイヒおよびビューゲル卿 Erbe Herr von Broich und Bürgel
  • 生年: 1582/6/5 ブロイヒ(独)
  • 没年/埋葬地: 1623/3/13 不明

生涯

ヴィリヒ六世の長男。1598年、弟のヴィリヒ七世とともにオルレアンの大学で学んでいた未成年の時点で、故郷のブロイヒ城がスペインのメンドーサ提督の軍に攻囲され、父が殺害されました。1602年、卒業した2人はパドヴァの大学に再入学しようとしますが、ちょうど病気を得てしまったりと計画を諦めざるを得なくなりました。その後いったんストラスブールで学友も含め3人でしばらく暮らし、1603年の秋には故郷のブロイヒ城に戻りました。

しかし1605年、ミュルハイムの戦い(1605)により、一帯はスペイン軍の支配下に入ります。ヨハン=アドルフはスペインの将軍アンブロジオ・スピノラ侯から強制され、スペイン軍に保護状を与えます。この戦いを期に、弟のヴィリヒ七世はオランダのナッサウ伯マウリッツの軍に身を投じました。ところが2年後の1607年、一時帰省したヴィリヒ七世は、アルンヘムのキャンプに戻ろうと城を出たやや北で、スペイン軍の夜盗に遭い殺害されてしまいます。ヨハン=アドルフ自身は領主としての仕事を全うし、軍務に就くことはなかったようです。

義母であるアンナ=マルガレータがナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテルと再婚して以降、兄弟はいずれもナッサウ家とは懇意になり、ヨハン=アドルフは1611年、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の娘アンナ=マリアと結婚しています。ヤン七世には二十人近い成人した子女がいたため、この結婚のおかげで、ヘッセン方伯モーリッツをはじめ、ヨハン=アドルフの親戚づきあいもかなり広がることになりました。

しかし弟の葬儀や自分の結婚にも多額の借金をしたとのことなので、領地の立地条件上、常に資金難には悩まされていた様子が見て取れます。

Graf-wilhelm-wirich-daun-falkenstein

Pieter Nason (17th century) In Wikimedia Commons

画像は長男ヴィルヘルム=ヴィリヒ。長男はファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクの娘と、ほかに長女はオランイェ公妃アマーリアの兄と結婚しています。

リファレンス

  •     Motley, “United Netherlands”