三十年戦争期の神聖ローマ皇帝軍元帥たち(3)

オランダの八十年戦争(1568-1648)とドイツの三十年戦争(1618-1648)は完全に時期がかぶっているので、三十年戦争で有名な軍人たちも、オランダとニアミスしていることが多いです。下記神聖ローマ皇帝軍元帥リストのうち、三十年戦争期に任命された元帥35名の中から、オランダと関係した元帥またはフランドル軍での経験のある元帥を中心に比較的有名な人物を8名ピックアップし、それぞれ4名ずつで2記事、さらに(3)としてややマイナーな人物を8名挙げています。元帥になった年号順に並べています。

ほかの記事はこちら。

当たり前といえば当たり前ですが、各元帥たちが、そのキャリア形勢期に別な元帥のもとで従軍していたとか、ある元帥が亡くなってポストが空いたので昇進したとか、それぞれにリンクしています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • Wilson, “Thirty Years War”

英・独版ウィキペディアの皇帝軍元帥一覧。各項目へのリンクはさすがにご当地の独語版のほうが多いです。

モンテネグロ侯ジロラモ・カラファ Girolamo Caraffa

Girolamo Carafa

Mathias van Somer (1623?) In Wikimedia Commons

  • モンテネグロ侯 Marchese von Montenegro、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1622)
  • 生年: 1564 アブルッツォ(伊)
  • 没年: 1633 ジェノヴァ(伊)

生涯

ナポリ生まれの軍人。ローマで教育を受けたのち早くに結婚しましたが、1587年、家族の反対を押し切って突如フランドル方面軍に士官します。パルマ公ファルネーゼに従って、おもにオランダというよりも、フランスの第八次ユグノー戦争に介入して、アンリ四世率いるフランス軍と戦いました。とくにアミアン攻囲戦(1597年)では、籠城側の司令官の戦死の後その防衛の指揮を取りました。アミアンは結局開城しましたが、その際にアンリ四世本人からその勇猛さを賞賛されています。

その後オランダでオーステンデ攻囲戦に参加した後は、イタリア方面に派遣され、シチリア騎兵を率いてサヴォイアと戦いました。のち、神聖ローマ皇帝フェルディナント二世直々に誘われて皇帝軍に籍を置くことになります。三十年戦争初期、ボヘミアでは元帥ブッコワ伯の部下として白山の戦いに参加し、その和平ののちに自らも皇帝軍元帥、さらに同時に帝国諸侯となっています。

その後スペインのフェリペ四世によってアラゴン副王に任じられました。本人はオランダ戦線に復帰することを熱望しており、その希望が叶った1633年、旅の途中のジェノヴァで病を得て亡くなりました。

カラファは母国語のイタリア語同様、スペイン語・フランス語・ギリシア語・ラテン語に通じ、天文学者としても一目置かれていたインテリでした。暇さえあれば天体観測をしていたようです。

バルタサル・デ・マラダス Baltasar de Marradas

Blatasar Marradas

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • マルタ騎士 Ritter des Malteserordens、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1626)、ボヘミア総督 Statthalter in Böhmen
  • 生年: 1560/11/28 バレンシア(西)
  • 没年: 1638/8/12 プラハ(チェコ)

生涯

スペイン出身ですが、1600年頃には既に神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の宮廷に仕えていたようです。しかも、軍人としてその名が見られるのは、さらに後の1617年、グラディスカ戦争(ウスコク戦争)の頃になります。戦死した司令官の代理として、ヴェネツィア軍およびオランダの派遣軍とも第二次グラディスカ攻囲戦で戦っています。

どちらかというと軍事司令官としては無能で、交渉力や政治力で権力を手にした人物です。大した軍功もたてないうちに元帥となり、帝国諸侯の地位をも手に入れます。その割にヴァレンシュタインへの対抗心が人一倍強く、ヴァレンシュタインの罷免の熱心な推進派でもあり、さらに、いったん復帰したヴァレンシュタインの暗殺にも黒幕のひとりとして関わっていたともいわれています。その時々で皇帝の意を汲むのに長けていたのかもしれません。最終的にはボヘミア総督の地位に就いています。

ハンス=ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルク Hans Georg von Arnim-Boitzenburg

Hans Georg von Arnim

P. Aubry ? (around 1650) In Wikimedia Commons

  • 皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1627)
  • 没年: 1583 ボイツェンブルガー=ラント(独)
  • 没年: 1641/4/28 ドレスデン(独)

生涯

とりあえず皇帝軍元帥になったこともあるのでここに書きましたが、生涯を箇条書きにしたほうがいいかも、というほどあちこちと所属を変えた人物です。若年期には大学も3回も替えています。軍人キャリアが長いですが、

  • 1612年 ブランデンブルクで士官するも、翌年決闘騒ぎを起こして追放になる。
  • 1613-1617年 スウェーデン国王グスタフ二世アドルフのロシア戦線に従軍。同時に、外交官としてブランデンブルクに赴き、グスタフと選帝侯女マリア=エレオノーラの婚約の交渉をおこなう。
  • 1621-1622年 ポーランド国王に呼応しドイツ人連隊を率いてオスマン戦線に従軍。
  • 1626年 ヴァレンシュタインの熱心な勧めで皇帝軍に士官。
  • 1629年 皇帝フェルディナント二世の命でポーランド国王を支援し、グスタフ二世アドルフとシュトゥルムの戦いで対峙。
  • 1629年 皇帝フェルディナント二世の『復旧令』とヴァレンシュタイン罷免に激怒し皇帝軍を去る。
  • 1631年 ザクセン選帝侯軍に士官し、ブライテンフェルトの戦いではグスタフ二世アドルフの友軍として参戦。
  • 1635年 ザクセン選帝侯が事実上皇帝に下った『プラハ条約』に反発し、ザクセンを去る。
  • 1637-38年 オクセンシェルナによって対スウェーデン陰謀の容疑で捕らえられスウェーデンで虜囚生活を送るが、翌年脱出に成功。
  • 1639-1641年 再度ザクセン軍や皇帝軍に身を置き、「外国勢力(この場合はフランスとスウェーデン)からドイツを守るため」生涯を捧げる。

ハンス=ゲオルクはやはり高度な教養を身に付けた人物で、ドイツ語・フランス語・スウェーデン語・ラテン語を完璧に話し、敵味方双方から尊敬を受けました。また、所属は頻繁に替えましたが、ルター派の信仰は生涯揺らぐことはなく、戦場では常に兵士のために祈っていました。非婚主義をも貫き、「ルター派のカプチン僧」ともあだ名されています。

シュリック伯ハインリヒ Heinrich von Schlik zu Bassano und Weißkirchen

Heinrich von Schlik

Unknown (1722) In Wikimedia Commons

  • シュリック・ツー・バサーノ=ウント=ヴァイスキルヒェン伯 Graf von Schlik zu Bassano und Weißkirchen、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1627)、参謀本部総長 Hofkriegsratspräsidenten (1634-)
  • 没年: 1580 (?)
  • 没年: 1650/1/5 ウィーン(墺)

生涯

若年期はハンガリー戦線を皮切りに、1600年頃からフランドル方面軍に所属して、オランダで軍事経験を積みました。ユーリヒ=クレーフェ継承戦争では皇帝ルドルフ二世の軍で、ユーリヒやアルザス地方で戦っています。通常とは逆ですが、その後にグランドツアーに出て、イングランドやフランスでとくに数学に没頭しました。その知識をもって、プファルツ=ノイブルク軍・ブラウンシュヴァイク軍・スペイン軍など、さまざまな軍で修行したようです。

三十年戦争が始まるとほぼ一貫して皇帝軍に仕えることになります。ブッコワ伯、リヒテンシュタイン侯、ヴァレンシュタインの部下として、アルドリンゲン伯とは同僚として各地を転戦しています。ハンガリー方面での遠征の功績で皇帝軍元帥に任じられました。が、1630年代前半には自ら退役します。皇帝の再三の復帰要請にも応じず、辛うじて参謀本部入りを受諾しました。また、シュリック伯はヴァレンシュタインの対抗者でもあり、その死後には自ら参謀本部長の地位を希望し、その死までポストを維持しました。

三十年戦争期に限っていえば、この参謀本部長と皇帝軍元帥とを兼任した人物はコラルトー伯ランボルド十三世、シュリック伯、ロプコヴィッツ侯ヴェンツェル=オイゼビウスの3人くらいです。(ロプコヴィッツ侯は厳密にいえば元帥になったのがウェストファリア直前、および本部長就任はウェストファリア後。)

ブロンクホルスト=バーテンブルク伯ヨハン=ヤーコプ Johann Jakob von Bronckhorst-Batenburg

Johann Jakob von Bronckhorst-Batenburg Merian 1662

Matthäus Merian the Elder (before 1662) In Wikimedia Commons

  • ブロンクホルスト=バーテンブルク卿のち伯 Herr/Graf von Bronckhorst-Batenburg(1621-)、アンホルト伯 Graf Anholt、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1629)
  • 生年: 1582/2/12 アンホルト城(独)
  • 没年: 1630/10/19 フライブルク(独)

生涯

12歳の頃から地元で兵士としての訓練を受け、14歳からロレーヌやイタリアで学んだ後、1603年に父の所属していたフランドル方面軍で中隊長となりました。しかし1609年にスペインとオランダは休戦条約を結んでしまうので、ヨハン=ヤーコプは戦いの場所を求めオーストリア軍(オーストリア大公レオポルト五世麾下)に士官します。

三十年戦争が始まると、バイエルン公マクシミリアン一世の軍に所属し、白山の戦いで活躍しました。その功で翌年の1621年にはブロンクホルスト=バーテンブルク伯の称号を得、さらに翌年にはバイエルン軍の元帥に任じられます。

1622-1623年にヨハン=ヤーコプはティリー伯の部下として主にデンマーク戦線で戦い、逆に自分の部下の中には、のちの皇帝軍元帥マティアス・ガラスがいました。ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公クリスティアンを敗走させることに成功しています。また、スピノラ侯のもとでブレダ攻囲戦にも参戦しています。

1628年に金羊毛騎士、翌1629年に皇帝軍元帥となりました。皇帝軍では「ブロンクホルスト=バーテンブルク伯」ではなく、おもに「アンホルト伯」の通称で呼ばれましたが、ボヘミア冬王フリードリヒ五世の顧問である「アンハルト侯」と混同しやすいので注意。しかし自らのキャリアの絶頂期にあって、1630年、結核のため病死しました。

アルトリンゲン伯ヨハン Johann von Aldringen

Theatrum Europaeum - Aldringen

Unknown (1670) In Wikimedia Commons

  • アルトリンゲン伯 Graf von Aldringen、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1632)
  • 生年: 1588/12/10 ティオンヴィル(仏)
  • 没年/埋葬地: 1634/7/22 ランツフート/レーゲンスブルク(独)

生涯

南ネーデルランド生まれ。若年期は執政夫妻の宮廷でペイジとなり、1606年以降フランドル軍で軍務に就きます。三十年戦争勃発後には、フェルディナント二世の皇帝軍の所属となりました。1622年のデッサウ橋の戦いでペーター二世マンスフェルトを敗走させています。その後ヴァレンシュタインのもとで転戦しました。

1630年、マントヴァ継承戦争に、友人でもあるマティアス・ガラスと参戦します。マントヴァの略奪で両名は悪名を馳せましたが、逆に皇帝からは功績とされ帝国諸侯に序せられています。ガラスとは仲が良かったらしく、同年、それぞれダルコ伯の娘である姉妹と結婚して義理の兄弟にまでなっています。

アルトリンゲン伯はティリー伯のもとでブライテンフェルトの戦いやレヒ川の戦いにも参加しています。ティリーの死後、その跡を継ぐかたちで皇帝軍元帥となりました。同時に、バイエルン公マクシミリアン一世の軍の副官でもあったため、ヴァレンシュタインとマクシミリアン一世との間を交渉役として取り持ってもいます。

ヴァレンシュタインの死後は主にスウェーデン・フランス連合軍に対抗しました。ランツフート防衛戦で戦死。その死は皇帝とバイエルン公の2人に非常に惜しまれたとのことです。

マンスフェルト伯兄弟(ヴォルフガンク/フィリップ) Wolfgang / Philipp von Mansfeld

Wolfgang von Mansfeld Philipp von Mansfeld

Unknown (17th century) / Khevenhiller (1721) In Wikimedia Commons

  • マンスフェルト伯 Grafen von Mansfeld–Vorderort、皇帝軍元帥 Kaiserliche Feldmarschälle(1632/1633)
  • 生年: 1575 : 1589
  • 没年: 1638/5/15 ウィーン(墺) : 1657/4/8 ジェール(ハンガリー)

生涯

マンスフェルト伯たち 参照。