プロテスタント同盟(ウニオーン) Protestantische Union

Urkunde_protestantische_Union

「プロテスタント同盟」 (1608/5/14) In Wikimedia Commons

レーゲンスブルク帝国議会で「アウクスブルクの宗教和議」の原則が無視されかねないと危惧したプロテスタント諸侯は、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンストの呼びかけでアウハウゼンに集まり、防衛のための同盟を締結します。1608年5月14日に文書に署名したのは6人のメンバー。画像付きでメンバーを紹介しているページというのが案外見つからなかったので、自分でつくってしまいました。ここでは7名(盟主のプファルツ選帝侯フリードリヒ四世を含む)を載せています。

もっとも、この後さらに加盟が続き、1608年のうちにはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハン二世とエッティンゲン伯ゴトフリートが、1610年までにはヘッセン方伯モーリッツと17の帝国都市が加盟します。ザクセン選帝侯への働きかけは失敗したそうです。ナッサウ伯(この場合ヤン七世)が入っていないのも興味深いです。設立メンバーが若いことも関係しているかもしれません。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム=フリードリヒは正式に加盟してはいないようですが、異母弟2人が設立メンバーに居ることから、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争の際はこの「同盟」を頼っています。

もともとルター派・改革派双方の宗教観の違いを内在し、ザクセン選帝侯などの重鎮を欠いたこの同盟は、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争を経てプファルツ=ノイブルク公のカトリック改宗と離反があり、そのまま三十年戦争に突入しました。白山の戦いでのフリードリヒ五世の敗北を受け、1620年ウルム条約によってカトリック「連盟」との中立が約され、さらに1621年、ハイルブロンで「同盟」の解散が確認されることになります。

プファルツ選帝侯フリードリヒ四世 Friedrich IV von der Pfalz

Anonymous Portrait of Frederick IV the Righteous

Anonymous (1600) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯およびプファルツ選帝侯 Pfalzgraf und Kurfürst von der Pfalz
  • 生年: 1574/3/5 アンベルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1610/9/19 ハイデルベルク/聖霊教会(独)

生涯

この文書に直接署名はしていません(アンハルト侯による代理)が、プロテスタント同盟の盟主のため、ここに挙げておくことにします。改革派。1608年時点で34歳。

叔父で熱烈な改革派教徒のプファルツ=ジンメルン公ヨハン=カジミールを摂政として育ちます。ヨハン=カジミールの没年と前後してアンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン一世を雇用しているので、あまり自分では統治をおこなっていないかもしれません。それでも領地内を要塞化したり、外国人を一定期間免税することで移民を増やしたり、評価されている部分はあります。

しかし、文字どおり浴びるほどワインを飲み続けたせいでアルコール依存症となり、「同盟」締結の頃にはほとんどの仕事をアンハルト=ベルンブルク侯に丸投げしていました。傍から見ても命の危険を感じるほどの飲みっぷりだったそうで、1610年、36歳の若さで病死しています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • ADB
  • NDB

ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンスト Joachim Ernst von Brandenburg-Ansbach

Arolsen Klebeband 01 239 3

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯 Markgraf von Brandenburg-Ansbach
  • 生年: 1583/6/22 ケルン・アン・デア・シュプレー(独)
  • 没年: 1625/3/7 アンスバッハ(独)

生涯

改革派。1608年時点で25歳。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム=フリードリヒの異母弟、且つ、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアンの実弟。

1603年、直系の絶えたアンスバッハ=クルムバッハ辺境伯の領地のうち、アンスバッハを継いでブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯となります。その直前には改革派としての情熱からオランダの対スペイン戦争に触発され、志願兵としてナッサウ伯マウリッツのもとに勉強にやってきていました。ナッサウ伯エルンスト=カシミールの部隊に居たようですが、本人の意志とは裏腹に、将校としてではなくあくまでもお客様扱いだったようです。

プロテスタント同盟の設立に主導権をとったのもヨアヒム=エルンストで、会合の場所として自領を提供しました。その後のユーリヒ=クレーフェ継承戦争でも異母兄ヨアヒム=フリードリヒを助け、モルスハイム攻囲戦(1610)では、バーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク=フリードリヒとともに、ストラスブール司教レオポルト五世への援軍を遮断することに成功しています。

ただ、三十年戦争がはじまってからは不遇が続きました。ヨアヒム=フリードリヒは最後まで同盟の解散には反対し、ハイルブロンにも最後に到着しましたが、逆に責任を糾弾される有様でした。バーデン=ドゥルラハ辺境伯やヴュルテンベルク公はその後再度軍を出すことになりますが、ヨアヒム=エルンストはそのまま隠遁し、42歳の若さで脳溢血で亡くなりました。

なお、妻はゾルムス伯家のゾフィー・フォン・ゾルムス=ラウバッハ。軍人を多数輩出しているゾルムス家の娘は結婚相手としては引っ張りだこだったようで、ヨアヒム=フリードリヒのレベルの血筋でもやっとのことでゾフィーと結婚できたとのことのようです。なお、この結婚で、ヘッセン方伯モーリッツやゾルムス=レーデルハイム伯フリードリヒとも義理の兄弟の関係になっています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • ADB
  • NDB

ブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン Christian von Brandenburg-Bayreuth

ChristianvonBrandenburg-Bayreuth01

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ブランデンブルク=バイロイト(クルムバッハ)辺境伯 Markgraf von Brandenburg-Bayreuth、フランケン帝国クライス長 Kreisobristen des Fränkischen Reichskreises
  • 生年: 1581/1/30 ケルン・アン・デア・シュプレー(独)
  • 没年: 1655/5/30 バイロイト(独)

生涯

1608年時点で27歳。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム=フリードリヒの異母弟、且つ、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンストの実兄。

1603年、直系の絶えたアンスバッハ=クルムバッハ辺境伯の領地のうち、クルムバッハを継いでブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯となりますが、その後居館をバイロイトに移したのを期にブランデンブルク=バイロイト辺境伯と称するようになります。

なお、晩年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯領の騎士団として「コンコルド騎士団」を設立しています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年

ヴュルテンベルク公ヨハン=フリードリヒ Johann Friedrich von Württemberg

900-185 Herzog Johann Friedrich

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ヴュルテンベルク公 Herzog von Württemberg
  • 生年: 1582/5/5 モンベリアル(仏)
  • 没年: 1628/7/18 ハイデンハイム(独)

生涯

1608年時点で26歳。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム=フリードリヒの娘婿。

父のフリードリヒ一世が濃いキャラクターだったため、その治世のとがった部分を中庸に戻そうとした平和主義の為政者。ただ、宗教観に基づく同盟については父と考えを同じくし、プロテスタント同盟についても父親とともに交渉に参加していました。同盟締結直前の1608年1月に父が亡くなったため、ヨハン=フリードリヒがサインをしています。

1621年の同盟解散後は、バーデン=ドゥルラハ辺境伯とともにヴィンプフェンの戦いに馳せ参じます。しかしここで大敗し、末弟まで亡くしてしまいました。その後1628年に急死。弟たちが後見についたものの息子エバーハルト三世は13歳で、翌年には皇帝軍によって領地の大部分が奪われました。1634年のネルトリンゲンの戦い以降はさらに激しい略奪に遭い、エバーハルト三世はウェストファリア条約まで亡命を余儀なくされてしまっています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • ADB
  • NDB

アンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン一世 Christian I von Anhalt-Bernburg

Christian I. von Anhalt-Bernburg, 1609

Circle of Michiel van Miereveld (1609) In Wikimedia Commons

  • アンハルト=ベルンブルク侯 Fürst von Anhalt-Bernburg、最高顧問 Kanzler der Pfalz
  • 生年: 1568/5/11 ベルンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1630/4/17 ベルンブルク/ベルンブルク宮殿教会(独)

生涯

1606年より改革派。1608年時点で40歳。1610年以降プファルツ選帝侯の最高顧問。

アンハルト侯の署名はプファルツ選帝侯フリードリヒ四世の代理としてのものです。とはいえ、フリードリヒ四世は1610年には若くして亡くなってしまうので、その後は独自に同盟に関わり続けたともいえます。

外交官肌で見識も人脈も広く、ザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯、仏国王アンリ四世とも懇意でした。彼自身が古い家系の出身で領主でもありましたが、分割継承した小領地の経営に満足せず、高位の貴族に仕えて身を立てることを選びます。後の歴史から見ると三十年戦争初期における敗北者の側の立場ですが、青年時代にはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ=ユリウスと並んで、学識ある貴族として有名でした。その評判から、皇帝ルドルフ二世に東方軍の司令官を打診されたこともありますが、カトリックに利することを由とせず、ナッサウ伯ヤン七世の口利きでプファルツ選帝侯に仕えることとなりました。プファルツに来てから、ルター派から改革派へ改宗しています。

アンハルト侯はこの同盟に際して、諸侯の調整にも力を振るっています。1610年にフリードリヒ四世が亡くなると、その長男のフリードリヒ五世の教育係を兼任し、彼のボヘミア王即位を後押ししました。

1620年の白山の戦いで敗走した翌年、クリスティアン一世はフリードリヒ五世を支援した罪で帝国内での法益を剥奪されました。帝国外であるスウェーデンやデンマークに亡命しながら皇帝フェルディナント二世へ恩赦の嘆願を続け、弟のアンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ一世や長男クリスティアン二世(白山の戦いで捕虜になったものの、なぜか皇帝の覚えめでたくすぐに釈放されていた)の計らいもあり、1624年には恩赦を受けることができています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • ADB
  • NDB

プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング=ヴィルヘルム Wolfgang Wilhelm von Pfalz-Neuburg

Portrait of Wolfgang Wilhelm, Count Palatine of Neuburg, Gemeentemuseum Helmond 95-286

Anthony van Dyck (circa 1629) In Wikimedia Commons

  • プファルツ=ノイブルク公 Herzog von Pfalz-Neuburg、ユーリヒ=ベルク公 Herzog von Jülich-Berg
  • 生年: 1578/11/4 ノイブルク(独)
  • 没年: 1653/3/20 デュッセルドルフ(独)

生涯

ルター派。1608年時点で30歳。

詳細は「ユーリヒ=クレーフェ継承戦争」へ。

同盟締結の交渉には父フィリップ=ルートヴィヒとともに参加、署名はヴォルフガング=ヴィルヘルムがしています。ユーリヒ=クレーフェ継承戦争(1610-1614)の継承権主張者の一方でもありますが、この戦争の最中に突如カトリックに改宗しカトリック「連盟」に転向、1615年には金羊毛騎士となり、1617年に正式に「同盟」から脱退しました。

改宗後は領地の再カトリック化に努めています。しかし本国ノイブルクでは一定の成功を収めたものの、ユーリヒ=ベルクでは、オランダやスペインが駐留する飛び地もあり、あまりうまくいきませんでした。それでもヴォルフガング=ヴィルヘルムはデュッセルドルフを好み、徐々に拠点をノイブルクからデュッセルドルフに移しました。

家庭生活はあまり幸福ではなく、3回結婚したものの妻の全てと不仲、さらに一人息子のフィリップ=ヴィルヘルムとも物心ついたころから仲が悪く、常に気難しく感情の起伏が激しかったようです。なお、この長男フィリップ=ヴィルヘルムは、のちに70歳でプファルツ選帝侯位を継ぐことになり、プファルツ継承戦争の契機となっています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
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バーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク=フリードリヒ Georg Friedrich von Baden-Durlach

Arolsen Klebeband 01 279 3

Unknown (1620) In Wikimedia Commons

  • バーデン=ドゥルラハ辺境伯 Markgraf von Baden-Durlach
  • 生年: 1573/1/30 ドゥルラハ(独)
  • 没年/埋葬地: 1638/9/24 ストラスブール(仏)/プフォルツハイム(独)

生涯

ルター派。1608年時点で35歳。

父カール二世がルター派だったものの、2人の兄がそれぞれ改革派とカトリックに改宗してしまい、最終的に生涯ルター派のままでいたのはゲオルク=フリードリヒだけでした。また、1604年までに兄2人が亡くなってしまうので、いったん分割相続されていたバーデン=ドゥルラハを結局ひとりで相続することになります。相続後はズルツブルクに拠点を移しました。

敬虔なルター派教徒であり、同時に経済観念に長けた為政者でもありました。1603年に銀行を設立し、ワインと穀物の取引を奨励しました。そのため、三十年戦争期の経済危機にもほとんど影響はありませんでした。

また、軍略家としても知られていて、「同盟」設立の際にも同盟全体の司令官とされました。ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世のジーゲン士官学校の設立にも助力しています。息子たちに宛てて軍学書も書き残しているそうです。

ですが、実際の司令官としては机上のようにはいきませんでした。「同盟」解散後の1622年、彼だけはプファルツ選帝侯フリードリヒ五世を支援し続け、皇帝およびカトリック連盟に徹底抗戦することを決め、軍を集めはじめます。それを理由にバーデン=ドゥルラハ辺境伯領を皇帝フェルディナント二世に取り上げられないよう、退位して息子のフリードリヒ五世(たまたま選帝侯と名前が同じです)に家督を譲った上で、一介の傭兵団として、マンスフェルト伯エルンストの軍に合流しました。

しかし、ヴィンプフェンの戦いでティリー伯とコルドバ将軍の連合軍に惨敗、いったんデュルラハに逃げ帰ります。このときバーデンはティリー伯の略奪に遭い、さらに、兄から相続したバーデン=バーデン辺境伯領を失います。その後1627年、デンマーク国王クリスチャン四世の招聘によりデンマーク軍の司令官を務めますが、やはりヴァレンシュタインに惨敗。クリスチャン四世とも不和になり、その後は退役して、ストラスブールで宗教的な著作活動をして過ごしました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
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