ゾルムス=ブラウンフェルス諸伯 Grafen zu Solms-Braunfels

Solmns - Solms - Wapenboek Nassau-Vianden - KB 1900 A 016, folium 29r

Wapenboek Nassau-Vianden (circa 1485-1495) In Wikimedia Commons

ゾルムス伯領はヘッセンの一部。分家が多く、非常に複雑な家系のひとつです。八十年戦争に関わってくるゾルムス伯も何名か居ますが、資料によって、ミドルネームしか書いていない・分家名が書いていない、など書き方が違っていて最終的に特定するのに苦労しました。この時代になると、「ゾルムス」の名が入っている者同士だからといって、特段近い親戚筋というわけでもなくなってきているようです(もちろん遠縁ではありますが、他の家系との関係とも大差ないという意味です)。ちなみに、一般的にドイツ貴族のタイトルの後ろには von をつけますが、彼らの大部分は zu。「von」>「zu」として、zu はどちらかというと、分家などに使われたようです。

ここでは、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの妃アマーリア・ファン・ゾルムス=ブラウンフェルスの親兄弟を集めました。

ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン=アルプレヒト一世 Johann Albrecht I zu Solms-Braunfels

Solms-Braunfels

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  • ゾルムス=ブラウンフェルス伯 Solms-Braunfels
  • 生年: 1563/3/5 ブラウンフェルス(独)
  • 没年/埋葬地: 1623/5/14 ハーグ(蘭)/ハーグ

生涯

コンラッド・ゾルムス=ブラウンフェルス伯とエリーザベト・フォン・ナッサウ(ウィレム沈黙公の妹)の長男。マウリッツやフレデリク=ヘンドリクの従兄にあたります。またアマーリア・フォン・ゾルムスの父で、フレデリク=ヘンドリクにとっては同時に舅でもあります。

前半生はよくわかっていませんが、三十年戦争期にはプファルツ選帝侯の侍従長として登場します。彼のすぐ上の男子が7歳で夭逝していること、家督自体は四弟のヴィルヘルムが継いでいることから、はじめは跡継ぎとされず、幼少のうちからプファルツに預けられていた可能性も高いです。1619年に、互いに50代でヤン六世の娘(ウィレム=ローデウェイクやエルンスト=カシミールの姉妹)ユリアナと再婚しています。1620年の白山の戦いで主のフリードリヒ五世が敗れてのち、彼とともに各地を転々とし、最終的にハーグまでたどり着きました。が、その後2年ほどで死亡。娘アマーリアと従弟フレデリク=ヘンドリクの結婚を見ることはありませんでした。

リファレンス

ゾルムス=ブラウンフェルス伯エルンスト Ernst zu Solms-Braunfels

Solms-Braunfels

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  • ゾルムス=ブラウンフェルス伯 Solms-Braunfels
  • 生年: 1568/11/18 ブラウンフェルス(独)
  • 没年/埋葬地: 1595/9/4 ラインベルク(蘭)/アルンヘム・聖エウセビウス教会

生涯

コンラッド・ゾルムス=ブラウンフェルス伯とエリーザベト・フォン・ナッサウの三男(成人した男子のみ数えた場合)。ヨハン=アルプレヒト一世の全弟。マウリッツやフレデリク=ヘンドリクの従兄弟にあたります。貧乏貴族の次男以下の宿命として、幼少の頃からどこかへ預けられ、軍人としての教育を受けたものと思われます。いつごろオランダへやってきたかはわかりませんが、親戚筋のゾルムス伯ゲオルグ=エバーハルト(祖父が同じ)の誘いで訪れた可能性は高いです。従兄弟のマウリッツやフィリップスとは同世代のため、仲の良い飲み仲間だったようです。

1595年のフロール攻囲戦の際、従兄弟のナッサウ伯フィリップス、エルンスト=カシミール、ローデウェイク=ヒュンテル兄弟などを含む、少数の騎兵で奇襲をしかけようとして失敗。リッペ川付近の乱戦で重傷を負ってしまいます。そのままエルンスト=カシミール、同じく重傷のフィリップスと3人で捕虜となりラインベルク城に運ばれましたが、フィリップスに次いで数日後、怪我がもとで死亡しました。2人の遺体は丁重に返却され、一緒にアルンヘムの聖エウセビウス教会に葬られています。死亡の日を8/24としているものが多いのですが、ここでは聖エウセビウス教会のプレートに書かれている日付に合わせました。ユリウス暦とグレゴリウス暦の違いと思われます。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”
  • Kikkert, “Maurits”

ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン=アルプレヒト二世 Johann Albrecht II zu Solms-Braunfels

Johan albert van solms

Crispijn van de Passe (II) (1632) In Wikimedia Commons

  • ゾルムス=ブラウンフェルス伯 Solms-Braunfels、ユトレヒト知事 Gouverneur van Utrecht、マーストリヒト知事 Gouverneur van Maastricht
  • 生年: 1599/6/2 ブラウンフェルス?(独)
  • 没年: 1648/10/6 マーストリヒト(蘭)

生涯

ヨハン=アルプレヒト一世の長男にして、アマーリアの兄。おそらく一家揃ってプファルツ選帝侯フリードリヒ五世の随員としてハーグに亡命。その後、妹のアマーリアがオランイェ公妃になったことも手伝い、軍人として重要な地位を占めることになります。オランダ軍で連隊長を務め、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの主な攻囲戦には必ず登場します。また、ユトレヒト知事、晩年はマーストリヒト知事を歴任しています。

リファレンス