プリンス・ルパートとプリンス・モーリス Prince Rupert & Prince Maurice

Prince Rupert, Colonel William Legge, and Colonel John Russell by William Dobson

William Dobson (1645) In Wikimedia Commons 王党派の面々(いちばん左がルパート)

プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の三男と四男。英国王チャールズ一世が伯父、その王子たちが従兄弟という関係から、活躍の場がイングランド内戦(ループレヒトはさらに英蘭戦争)などおもにイングランドなので、ドイツ名よりも英語で「プリンス・ルパート」と「プリンス・モーリス」といったほうが有名かもしれません。このサイトでも、他の兄弟たちとは別に「イングランドの人物」にカテゴリ分けすることにしました。

ライン宮中伯ループレヒト(カンバーランド公ルパート) Ruprecht Pfalzgraf bei Rhein, Prince Rupert of the Rhine

Honthorst Ruprecht v.d. Pfalz@Nieders. Landesmuseum20160811

Gerard van Honthorst (1642) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Count Palatine of the Rhine、初代カンバーランド公 1st Duke of Cumberland、ホールダーネス伯 Earl of Holderness
  • 生年: 1619/12/27 プラハ(チェコ)
  • 没年/埋葬地: 1682/11/29 ロンドン/ウェストミンスター寺院(英)

生涯

フリードリヒ五世がボヘミア王だった時期に生まれた三男。ハーグ亡命中の家族とともにオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの庇護のもとハーグで育ち、少年時代にはフレデリク=ヘンドリクのペイジや近衛隊として務めました。1633年のラインベルク攻囲戦、1637年のブレダ攻囲戦に同行しています。幼児期より4ヶ国語を操り数学・科学・芸術に才能を示す反面、悪童としても手を焼かれ、終生に渡ってその悪ガキぶりを発揮していくことになります。

成人すると、兄のカール=ルートヴィヒに従って、プファルツ選帝侯国を取り戻すための戦いに加わりますが、フロートーの戦いで敗れ、皇帝軍の捕虜となってリンツに送られました。虜囚生活は3年に及びましたが、オーストリア大公レオポルト=ヴィルヘルムの知己を得てからは、狩猟のための旅行が許可されるほどに寛大な扱いを受けました(愛犬「ボーイ」をもらったのもこのときです)。最終的に、「二度と皇帝に弓を引かない」という誓いのもと、自由の身となります。これ以降、ループレヒトは伯父チャールズ一世の治めるイングランドに向かうことになります。

ループレヒトはイングランド内戦では騎士党の騎兵将校として、英蘭戦争では海軍提督として活躍し、いずれの戦争でも王党派のシンボル的存在として当時も今もイングランドで非常に人気のある人物です。詳しく書くときりがないため、この記事では参加した主な戦いを列記するにとどめます。

第一次イングランド内戦

  • エッジヒルの戦い
  • ブリストル占領
  • 第一次ニューベリーの戦い
  • マーストン・ムーアの戦い
  • ネイズビーの戦い
  • ブリストル攻囲戦

イングランド内戦でイングランドからの退去を命じられたのち、フロンド真っ最中のフランスで、フランス=スペイン戦争に加わりパ・ド・カレ方面で戦いました。第二次イングランド内戦勃発の報に接すると、ルイ十四世の指示でヨーク公(のちのジェームズ二世)の海軍に加わり、英国王の救援に向かいます。これは失敗し、しばらくはアフリカや西インド諸島で海賊稼業をして暮らしたこともありました。

1655年、選帝侯位を回復した兄カール=ルートヴィヒのもとにループレヒトは金の無心に訪れます(帝国法により、弟への年金付与の義務があるということを聞きつけたようです)。この2人は少年時代から折り合いが合いませんでしたが、ループレヒトはモデナ公をけしかけて教皇領に戦争を吹っ掛けようと画策したり、皇帝フェルディナント三世相手に勝手に金策したりなど、カール=ルートヴィヒの外交的立場を難しくしてしまうような行動を次々に起こし、さらに互いに女性問題でも対立して、兄弟は修復不可能なまでに不仲になってしまいました。二度とハイデルベルクに来るなと言われたほどです。なお、このドイツにいる期間、ループレヒトはメゾチントの技術を学んで版画作品を制作するなど、文芸の腕も磨いています。

1660年、イングランドで王政復古が成ると、国王兄弟に最も近しい親族としてイングランドへ渡ります。ヨーク公とともに海軍を率いて英蘭戦争に参加すると同時に、同年王立協会に加入し科学分野の発展にも尽力しました。

第二次英蘭戦争

  • ローストフトの戦い
  • 四日間海戦
  • 聖ジェームズの日の戦い(二日間海戦)
  • メドウェイ川襲撃(チャタム遠征)

第三次英蘭戦争

  • ソールベイの戦い
  • スホーネフェルトの戦い
  • テセル島の戦い

Boye, Prince Rupert's Poodle

妹のルイーズ=ホランディーネが描いた『ボーイ』 In Wikimedia Commons

リファレンス

ライン宮中伯モーリッツ Moritz von der Pfalz-Simmern

Maurice of the Palatinate

after Honthorst (1640s) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
  • 生年: 1621/1/6 コストシン(ポーランド)
  • 没年: 1652/9/16 西インド諸島

生涯

フリードリヒ五世亡命時代に生まれた四男。モーリッツという名前は、母親のエリザベスがオランダの支援をあてにして、ナッサウ伯マウリッツの名をとって政治的に名づけたもの。ハーグ亡命中の家族とともにオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの庇護のもとハーグで育ち、成人前の16歳には兄のループレヒトとブレダ攻囲戦に参加しています。その後は、パリ大学やレイデン大学で学びつつ、スウェーデンのバネール元帥の軍に同行したこともあるようです。

1640年代はイングランド内戦において、兄のループレヒトと一緒に時には別々に、伯父であるイングランド国王チャールズ一世を助けて戦いました。伯父チャールズ一世が斬首されると、ループレヒトとともに小艦隊を仕立てて、コモンウェルス相手に新大陸との交易の妨害などをおこなっていました。が、ロバート・ブレイク提督に二度にわたって敗れ、海賊同様まで落ちぶれてしまいます。しかも西インド諸島でハリケーンに遭遇し、モーリッツの艦隊は行方不明になってしまいました。日本でも源義経や原田左之助(いずれもモンゴルで馬賊になる説)など、遺体のあがらなかった歴史人物にはよくあることですが、モーリッツにも、海賊たちにアルジェリアに連れて行かれ、その後はアフリカで活躍した(ラクダ賊?)なんて伝説があります。

「狂騎士」や「最後の騎士」はいずれもループレヒトについて言われる渾名ですが、むしろモーリッツのほうがふさわしいかもしれません。モーリッツはループレヒトと比肩する勇敢さを備え兵からの信望も厚かったものの、学問嫌いもあり戦術や交渉術はまったくの不得手でした。しかし、兄のループレヒトが不遇の時期もただ一人変わらず味方であり続け、その忠誠心が高く評価されています。

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