ラインベルク攻囲戦(1633) Beleg van Rheinberg

Rijnberk 1649 Blaeu

J. Blaeu (1649) 「ラインベルク攻囲戦(1633)」 In Wikimedia Commons

ラインベルク攻囲戦 Rheinberg 1633/6/11-7/2
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド
flag_se.gif スウェーデン

flag_es.gif スペイン
flag_es.gif 神聖ローマ帝国

勝 敗 ×
参加者

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン=アルプレヒト二世
ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ
ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト
コリニー伯ガスパール三世
ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー
リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー
ディーデン卿オットー・ファン・ヘント
トマス・ファン・スターケンブルック連隊長
ウィレム・ピンセン・ファン・デル=アー大佐
トルステン・スタールハンスケ

第三代アイトナ侯フランシスコ・デ・モンカダ

八十年の長い戦いの中でも、もっとも多くの回数、占領と被占領が繰り返された街ラインベルク。オランイェ公フレデリク=ヘンドリクにとっては盾持ち時代に初めて従軍した街でもあるが、今回は、当時自分に戦争を教えてくれた親族たちを全て亡くした後、初めて単独で遠征を指揮することになる街でもあった。そんな彼にとって、青春時代をこの地で共に過ごした旧友たちとの再会は、単なる懐かしさ以上に心強いものだったかもしれない。

9月上旬にやっと現れたスタールハンスケの騎兵隊1500は、まともな装備もない烏合の衆という有様だった。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/”Memoire”

はじめに

Rheinberg in WES

ラインベルクとヴェーゼル/メールスの位置関係 In Wikimedia Commons

黎明期から司令官たちを支え続けてきたナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール元帥を、先年の遠征で失ったオランダ共和国軍。元帥はナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムに代替わりしましたが、今回の攻囲戦にウィレムは従軍していません。

代わって、オランイェ公妃アマーリアの兄ゾルムス=ブラウンフェルス伯と、ヒルヒェンバッハ伯の異母弟ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツの2人が副官をまかされています。いずれも30歳前後。既に若手というより中堅の年齢です。最古参の老将・英軍ヴィアー将軍(この年70歳)、総司令官の従弟・仏軍シャティヨン元帥もこの1633年までは変わらず参戦。ほかの連隊長・中隊長たちも、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの時代になってからの攻囲戦で力をつけてきた若手メンバーです。加えて、ラインベルクはフレデリク=ヘンドリク本人にとっても、盾持ち時代の初陣にはじまり、何度も戦いを経験してきている慣れた舞台です。

この攻囲戦の参加者の中には、ラインベルク開城のすぐ後に「オルデンドルフの戦い」(1633年7月8日に戦われた三十年戦争の有名な会戦のひとつ)で主役となる、ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公とペーター・メランダーの2人の名前が挙がっています。2人とも青年時代の同時期(1600年代前半)にオランダ軍で修行を積んでおり、フレデリク=ヘンドリクとは旧知の仲でした。2人はいずれも傭兵隊長として身を立てていましたが、カレンベルク公は1631年からスウェーデン軍の将軍、メランダーはこの春にヘッセン=カッセル方伯に軍事顧問として雇われたばかりで、この後共にハーメルン方面へ向かうことになっていました。とくにメランダーにとっては、このラインベルクがヘッセン軍の使い勝手を試してみる良い機会だったのかもしれません。

ほかに、フレデリク=ヘンドリクのテントのすぐとなりには、「ボヘミア王子」の名が冠されたテントがあります。前ボヘミア王にしてプファルツ選帝侯フリードリヒ五世は前年の11月、スウェーデン国王の戦死直後に病死してしまっていますが、その息子たちの年長者たちは上から16歳・14歳・12歳と、盾持ちとして充分従軍に足る年齢です。三男のループレヒト(後のプリンス・ルパート)がここに来ていたことは確かですが、ほかの2人については正確なところはわかりません。

経緯

HeilbronnerKonvent1633

Unknown (circa 1842) ハイルブロン同盟(歴史画) In Wikimedia Commons

前年の1632年夏に「マース川沿いの遠征」を成功させたオランダに対し、南ネーデルランド執政府は和平の使者を送っていました。しかし、その条件があまりに現実とかけ離れているとして、オランダ側はそれを一顧だにせず次の遠征を計画します。

1629年にライン川沿いのスペイン街道の補給庫ヴェーゼルを奪取したオランダ軍は、次にライン川沿いのラインベルクの攻略を目論見ました。ラインベルクは八十年戦争が始まって以来おそらく最も多くの回数スペインとオランダの間で所属を変えた街で、メールス(オランイェ公の飛び地の領地のひとつ)とヴェーゼルをつなぐ位置にあります。この街ではスペイン軍だけでなくケルン選帝侯からも税が徴収されていて、住民には重い負担が強いられていました。オランダ軍は前年1632年に、執政府が建設した運河「フォッサ・エウヘニアーナ」の中継点フェンローを奪取しており、次にその起点であるラインベルクをも押さえることによって、(1)この運河計画の完全白紙化、(2)ライン川に残る最後のスペイン軍の拠点を押さえ「スペイン街道」のさらなる弱体化、を図るという二つの成果を期待することができます。

一方、ドイツでは前年リュッツェンの戦いでスウェーデン国王グスタフ=アドルフが戦死し、宰相のオクセンシェルナがドイツのプロテスタント諸侯を集めて、年明け4月には「ハイルブロン同盟」を調印していました。ラインベルク攻囲戦とその後のオランダ軍の一連のキャンペーンの時期は、「ハイルブロン同盟」の内容に待ったをかけたフランス、さらに、皇帝を裏切ってスウェーデンとの交渉を打診してきた皇帝軍のヴァレンシュタイン将軍、の二者に挟まれたオクセンシェルナが難しい舵取りを強いられている時期とちょうど重なります。

戦闘

Herinneringspenning Rheinberg 1633

ラインベルク開城記念メダル In Wikimedia Commons

フレデリク=ヘンドリクは、西側の小高い丘に敷いた自らの本陣のほか、4人の部下にそれぞれ街を囲む4つの陣を建設させました。

  • ゾルムス=ブラウンフェルス伯: ライン左岸に面した北キャンプ。舟橋で右岸との補給路が作られる。
  • ヨハン=マウリッツ: 南キャンプ
  • ブレーデローデ卿: 東キャンプ
  • ディーデン卿: ヴェーゼルに続き今回も協力したエメリヒ知事。北キャンプ右岸側のメーレム城を占拠。

キャンプ建設後それぞれが攻囲線を築いて街を囲み、さらにライン川を舟橋と河船で封鎖して敵の補給路を断ちます。同時にキャンプからは街に向けて塹壕が掘り進められ、3週間ほどで街への突入が可能な状態になりました。それを示すトランペットが鳴らされると、街も一斉突撃の前に開城交渉に応じました。このように特筆すべきことが何もないほど、攻囲自体はセオリーどおり、何の弊害も無く進みました。

ステーフェンスウェールトの攻防

Informatiebord kasteel van Stevensweert

ステーフェンスウェールト城案内板 In Wikimedia Commons

問題はむしろその後です。 この時、南ネーデルランドのディーストにはサンタ=クルズ侯の軍が駐屯していました。同じくそこに駐留していたアイトナ侯フランシスコ・デ・モンカダが、ラインベルク攻囲の隙に、前年奪われたマース側沿いのフェンローとルールモントを取り戻そうと軍を出しました。ファン・デン=ベルフ伯のオランダ転向後、アイトナ侯はその後任としてフランドル軍の総司令官に任じられていて、さらにイザベラ大公妃の死後には、次の執政である枢機卿王子フェルナンドの到着まで一時的に執政代理となる人物です。オランダとの和平条約の反対派でもあります。

オランダ軍からはスターケンブルック連隊長とピンセン大佐が現場に急行します。ピンセン大佐をフェンローに残し、スターケンブルック連隊長はルールモントに向かいましたが、いずれにもアイトナ侯の軍はなく、2つの街の間に位置するステーフェンスウェールト城が占拠されていました。ステーフェンスウェールト城はファン・デン=ベルフ伯の所有する城のひとつでしたが、ファン・デン=ベルフ伯はスペインを離反はしたものの、完全にオランダに味方するわけではなく中立の立場で隠居することを表明していて、今回の城占拠に関してもあらゆる仲介を拒否しました。

ラインベルクは開城していましたが、その堡塁の後処理も残っており、フレデリク=ヘンドリクはしばらく現場に足止めされたままです。そこでフレデリク=ヘンドリクはスウェーデン軍のオクセンシェルナに、割ける兵があればしばらく貸してほしい、もし厳しい戦いになりそうであれば城は諦め兵が消耗する前にお返しするから、という条件で使者を送ります。この交渉の間に、アイトナ侯はステーフェンスウェールト城に6つの砦を建設し、強固な防備を固めてしまいました。

その後にやっとラインベルクを後にしたフレデリク=ヘンドリクは、さらに6週間待ってスウェーデン軍とスヘルトヘンボスで合流しました。その隊長スタールハンスケはフィンランド・ハッカペルを率いる騎兵のベテランで、三十年戦争のスウェーデン軍ドイツ上陸以降、1644年まで将校として勤める息の長い将軍です。やはり「オルデンドルフの戦い」にも参加しており、戦いの後に急遽駆けつけたために兵も物資もかなり疲弊していました。

オランダ軍はしばらく、ブラバントに展開したというアイトナ侯の軍を追いましたが、現れたという場所に向かっても追いつくことができず、アイトナ侯が会戦をおこなうリスクを避けていると考えます。そこで今度は、マーストリヒトとリエージュの間に陣を張って待ち受けることにしました。しかしそのまま冬が到来し、この年の遠征は終わることになりました。援軍のスウェーデン軍には約束の1000ギルダーのほか、謝礼として300ギルダーのボーナスが支払われたそうです。

余波

'Apotheosis of Infanta Isabella' by Peter Paul Rubens, 1634, Pushkin Museum

Peter Paul Rubens (1634) 「イザベラ大公妃の神化」 In Wikimedia Commons

11月末、スペイン軍との追いかけっこに疲れたフレデリク=ヘンドリクがハーグに帰還して間もなく、南ネーデルランドの特使がやってきてイザベラ大公妃の死を伝えました。長年敵として戦っている相手ではありましたが、個人的にも大公妃と知己のあったフレデリク=ヘンドリクは、「彼女の貞節さ、高貴さ、柔和さ、敬虔さ、丁重さが失われたのは大変嘆かわしい」と哀悼の意を伝えたといいます。

この時点で、実は連邦議会の議員の中にも和平に傾く者が出てきていました。しかし特使は、スペイン本国(国王フェリペ四世とオリバーレス公伯)は戦争継続を望んでいるとの意向を伝えます。和平推進派である大公妃の死は、徹底抗戦を掲げるスペイン本国にとってもひとつの障害がなくなったことを意味しました。和平交渉の完全消滅を確認すると、特使はブリュッセルへ帰還しました。

他方年が明けて1月、皇帝軍の元帥ヴァレンシュタインが暗殺され、今度は皇帝軍の内部でも大きな変化が起こりました。皇帝フェルディナント二世の跡継ぎフェルディナント(のちの三世)がその地位に替わり、スペインのフェルナンド枢機卿王子とともに9月のネルトリンゲンで完全な勝利をおさめると、再度パワーバランスが皇帝側へ大きく傾きます。そのフェルナンド枢機卿王子の南ネーデルランド執政就任を受け、オランダとフランスは南ネーデルランドを標的とした攻守同盟を結び(1635年2月)、いよいよフランスが三十年戦争に正式に参戦してくることになります。

なお、この年の一連のキャンペーン中に、オランダは初めてスウェーデン軍(とくにその中でも蛮勇で名高いフィンランド騎兵)とヘッセン軍を味方として戦ったわけですが、フレデリク=ヘンドリクは彼らのあまりの規律の無さに辟易して、その後二度と助力を請わなかったそうです。これはフレデリク=ヘンドリクの兄マウリッツが1622年のベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦でマンスフェルト軍・ブラウンシュヴァイク軍に感じたものとまったく同じ図式で、三十年戦争がいかにドイツを荒廃させていたかが垣間見えるエピソードとなっています。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • ウェッジウッド『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年
  • Kikkert, “Frederik Hendrik”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Picart, “Memoires”