サス=ファン=ヘント攻囲戦(1644) Beleg van Sas van Gent

Siege of Sas van Gent by Frederick Henry in 1644 - Sassa Gandensis Obsessa et Expugnata (N.Renaut, 1649)

Unknown (1649) サス=ファン=ヘント攻囲戦 In Wikimedia Commons

サス=ファン=ヘント攻囲戦 Sas van Gent 1644/7/28-9/5
対戦国 flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド
flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト
ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク
ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ
ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ
ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク
リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー
ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン二世アルプレヒト
タルモン公アンリ=シャルル
ドートリーヴ侯フランソワ・ド・ローベスピーヌ
モーリス・ド・コリニー=シャティヨン
デストラーデ伯ゴドフロワ=ルイ
ホールネ伯ヨハン=ベルギクス?
フランシスコ・デ・メロ
イーゼンブルク=グレンツァウ伯エルンスト
アンドレア・デ・パラド
メーヘン伯アルベルト=フランス・ファン・クロイ
ロレーヌ公シャルル四世

ちょうど40年前、20歳のオランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、兄や従兄たちたくさんのナッサウ伯とゼーウス・フラーンデレンのカトザントに上陸した。泥地の行軍、繰り返されるスカーミッシュに苦しみながら、40年後の今、義弟や従弟たちを連れ、当時の計画を再現しようとしている。しかし最終目標のアントウェルペンは、地理的・物理的な理由以上に、はるかに遠い。

共和国が非常に関心を寄せるこの偉大で重要な成功について、妃殿下の幸福と満足を心の底から願います。そして妃殿下は今日から安心してお眠りいただけるでしょう。

ザイリヘム卿コンスタンティン・ホイヘンス/”Archieve”

はじめに

Map - Special Collections University of Amsterdam - OTM- HB-KZL I 2 A 8 (58)

Cóvens (c.1795) 1664年のゼーウス・フラーンデレン In Wikimedia Commons

「ゼーウス・フラーンデレン」は、ゼーラント州の中でも、スヘルデ川を越えて南ネーデルランド(現在のベルギー)と陸続きの地方です。この地図は1664年を描いたものですが、赤と黄の線で国境が、赤で連邦共和国の奪取した街が示されていて非常にわかりやすいので挙げてみました。現在のこの地方はほとんどが埋め立てられていますが、当時は大きく横に3つに分けた島のようになっており、スヘルデを遡ると最左端の大都市アントウェルペンに至ります。3つの島はいちばん左が「ラント=ファン=カトザント」、真ん中が「ラント=ファン=アクセル」(現在はテルヌーゼン)、右が「ラント=ファン=フルスト」です。

左の島ラント=ファン=カトザントは1604年から、中央の島ラント=ファン=アクセルは16世紀からオランダ側が支配していました。とくに、現在のアクセル地方の最大都市であるテルヌーゼンは当時スヘルデ川沿いの砦にすぎず、しかし、スヘルデ川の封鎖に最も重要な役割を担っている重要拠点でした。また、島とは泥地を挟んだ向かい側になりますが、サス=ファン=ヘントやフィリピーネといった砦も、ラント=ファン=アクセル地域に分類されます。こちら側は南ネーデルランドのブリュージュやヘントと陸続きです。この泥地は満潮時には水面下となり、徐々にポルダーとして埋め立てが進められてはいましたが、天候不良で簡単に洪水となり、住民たちが移動を余儀なくされることも過去に何度も繰り返されてきた難儀な地形でもあります。

Beleg van Sas-van-Gent door Frederik Hendrik, 1644 't Sas van Gendt (titel op object), RP-P-OB-81.124

Unknown (1662-1664) サス=ファン=ヘント攻囲戦 In Wikimedia Commons

この遠征にあたり、オランダ軍内では若干の人事異動がありました。ヒルヒェンバッハ元帥の戦傷死を受け、フレデリク=ヘンドリクの義弟ブレーデローデ卿が元帥となっています。また、故ヒルヒェンバッハ元帥の異母弟ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツがブラジルの植民地から帰国していました。ふだんはあまり遠征に参加しないフリースラント州総督のナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクも参戦しています。また、冒頭の地図には「タルモン公」のキャンプの名が見られます。タルモン公はフレデリク=ヘンドリクの姉の孫で、オランダに出入りしています。

ここに挙げた地図には「ライングラーフ」のキャンプの記載があります。仮に「ライン宮中伯」(プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の息子)であれば、この時期は年長者3人がイングランド内戦真っ最中のため、消去法で末弟のフィリップと思われます。または、「ヴィルト=ウント=ライン伯」のザルム伯です。ザルム伯は騎兵連隊長なのでこちらが有力でしょうか…。

なお、スペインのフランシスコ・デ・メロは、前年の1643年、ロクロワの戦いでフランスに大敗していました。この大敗のイメージが強いですが、枢機卿王子フェルナンド亡き後の南ネーデルランド執政職に就いており(かなり久々の王族以外の執政)、当時のスペイン軍では相当な実力者のひとりです。今回も彼にとっては不運で、オランダがサス=ファン=ヘント、フランスがグラヴリーヌを時間差で攻囲し、二方面作戦を強いられていました。

フィリピーネ攻囲戦(1635)Ontzet van het fort Philippines

Belegering en ontzet van het fort Philippines

Unknown (1649-1651) フィリピーネ攻囲戦(1635) In Wikimedia Commons

ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクがこの攻囲戦に参加したのは、彼がかつてこの地域で単独で軍事行動をおこなっていたことも理由かもしれません。中央の島・ラント=ファン=アクセルの砦の一つであるフィリピーネは、1600年のニーウポールトの戦いに先んじて、彼の父親であるナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールが占領していました。その後いったんスペインに奪還されてしまったこの砦を、ウィレム=フレデリクは33年後の1633年9月7日に艦隊で乗り付けて、わずか4日の砲撃で占拠しました。要塞建築を強化している最中、スペイン軍は7000人近い大軍で砦を奪還しに来ましたが、ウィレム=フレデリクは夜になると、艦隊にドイツ・フランス・イングランドの連隊で使用している行進曲をそれぞればらばらに演奏させ、大軍の援軍を装ってスペイン軍を敗走させています。

その2年後の1635年5月8日、南ネーデルランド執政として赴任したばかりの枢機卿王子フェルナンドは、砦がまだ拡張工事の途中であることに目を付け、再度フィリピーネ奪取を決定しました。この年の2月、ちょうどオランダはフランスと共闘条約を結んだばかりで、オランダ本隊は遠くマーストリヒトでフランス軍との合流を図ろうとしており、ゼーラント地方が手薄になるという目算もあったのかもしれません。枢機卿王子自身は蘭仏連合軍への対応のためナミュールに居り、フィリピーネにはド・フォンテーヌ伯を派遣します。拡張中の砦は片側がガラ空きだったため、方形堡と半月堡が即座にスペイン軍に占拠されてしまいました。ゼーラント州は急ぎ援軍を送ることを決定しましたが、急遽ヒルヒェンバッハ元帥も別途3個連隊を率いて艦隊で駆けつけました。到着したのは夜で、砦の前を横切ったところ、夜営中のスペイン軍は背後から奇襲されたと勘違いし、パニックが起こってそのまま逃走してしまいました。

いずれもたまたま幸運に恵まれただけの、勝利ともいえないような勝利でしたが、この出来事から9年、このフィリピーネ砦もサス=ファン=ヘント攻囲戦の重要な補給基地として利用されます。

戦闘

Kaart van beleg en verovering van Sas-van-Gent, 1644 Der Sass von Gendt Belägert den 28. Juli 1644. durch Ihr Ex Fridrich Henrich von Nassau Prinz von Or etc. und durch Accord erobert den 3 Septem, dieses Jahres (titel , RP-P-OB-81.539

Claes Jansz. Visscher (II) (1644) サス=ファン=ヘント攻囲戦 In Wikimedia Commons

フィリピーネに上陸したオランダ軍は、まずはいつもどおりに環状攻囲線の建設に取り掛かろうとします。オランダ上陸の報を受け、皇帝軍のイーゼンブルク伯が差し向けられました。そしてこれもいつもどおりのことですが、フレデリク=ヘンドリクは徹底的に野戦を避けようとします。そのため一計を案じ、オランダ軍の目的がサス=ファン=ヘントではなくブリュージュだと誤認させることにしました。泳ぎの上手い者を英・独・仏連隊からそれぞれ100人ずつ選抜して水路から先行させたり、連隊をあちこちぐるぐると進軍させたりしてその後を追わせ、その間に本隊はフィリピーネの真南のアッセネーデに本陣を置きました。これが7月28日です。また、ブレーデローデ元帥は、そこから南東5kmほどのゼルザーテに陣を敷きます。ブレーデローデ元帥に課せられたのは、ゼルザーテから北東のアクセルの街に向けて、海岸線沿いに洪水線を整備することでした。ブレーデローデ元帥の応援として、ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクの軍もその付近にキャンプを設けます。

ところでこの7月28日、グラヴリーヌで攻囲戦をしているフランス軍のオルレアン公ガストンから使者(マーシュヴィル伯アンリ・ド・グルネー)が来て、必需品(食料や物資?)の提供を依頼されたそうです。よくわかりませんが、ちょうど7月28日にグラヴリーヌは開城しているので、何か行き違いがあった可能性があります。

その2日後、サス=ファン=ヘント守備隊のデ・パラドは、街の周辺の堤防を切って、オランダ軍が塹壕を掘れないようにしました。また、砦のやや高台のラーペンブルフから見通しが良くなるようにと周辺の民家を焼き討ちにしました。これは街に難民が流入する原因となります。

Plattegrond van het belegerde Sas van Gent, 1644 Perfecte afbeeldinge van t' Sas van Gendt (titel op object), RP-P-AO-16-128

Cornelis Danckerts (I) (1644) サス=ファン=ヘント攻囲戦 In Wikimedia Commons 拡大図・街の南側の街より広い要塞がラーペンブルフと呼ばれる部分

いったんブリュージュに向かっていたイーゼンブルク伯がサス=ファン=ヘント付近に着いた時には、既に環状包囲が完成していました。イーゼンブルク伯は、ナッサウ=ディーツ伯の向かい側のムールファールトにキャンプを張り、そこにさらにロレーヌ公がスペイン軍を率いて援軍に現れました。フランシスコ・デ・メロも、ブレーデローデ元帥の向かいのリーメに陣を設けました。

オランダ側は環状攻囲線の内側、サス=ファン=ヘント付近の排水を進め、逆に、ブレーデローデ元帥は環状攻囲線の外側で整備した洪水線を切って、スペイン軍の進路を水で阻みました。日々砲撃と小競り合いが続きましたが、徐々にスペイン側はアントウェルペンに撤退していきました。8月28日、街に砲撃が届く位置まで塹壕が到達します。デ・パラドはデ・メロに救援を依頼しますが、確約はできないとの返事しか得られませんでした。

「新月の満潮の日に大雨と嵐が重なって」とあったので満月カレンダーで確認してみたところ、9月1日のことでしょうか。塹壕はすべて水浸しになるほどに浸水してしまいました。フレデリク=ヘンドリクは自ら膝まで浸かりながら兵士の間に割って入り、直接兵士たちを励ましながら排水を急がせました。

余波

Kaart van beleg en verovering van Sas-van-Gent, 1644 Nieuwe Afbeeldinge van t' Sas van Gendt Beneffens desselfs Belegering (titel op object), RP-P-OB-81.542

Cornelis Danckerts (I) (1644) サス=ファン=ヘント攻囲戦 In Wikimedia Commons 模式図がいちばん単純でわかりやすいバージョン

この浸水への手当は迅速に行われ、街はその後すぐ、9月5日に降伏しました。その直前、20年来のベテラン将校であるリンブルク=シュティルム伯が負傷し、ベルヘン=オプ=ゾームへ運ばれたものの1週間後に死亡しました。1640年代の攻囲戦では、毎回誰かしら主要人物が戦死しています。

この攻囲戦では、「メーヘン伯」について何度も言及されているのですが、彼の名前以外の情報がほとんどなく、実際この攻囲戦でどの位置にいたかはっきりしません。この地域の司令官、とのことなので、デ・メロ直下のフランドル方面軍司令官でしょうか。少なくとも、開城の際に引き渡しの責任者だったのはこのメーヘン伯で、そのリクエストに応えて、フレデリク=ヘンドリクは自分たちの建設した要塞を見せています。

ヘネプ攻囲戦のとき同様、サス=ファン=ヘント要塞の修復には1カ月を要しました。さらに、街の東側のオーストリア・ポルダーの干拓のため、フェレンス中隊長の部隊が残されます。10月12日に軍隊は船で帰国の途に就きました。ベルヘン=オブ=ゾームで歩兵を降ろした際、フレデリク=ヘンドリクもこのまま数日そこに留まり、ハーグに帰ったのは10月21日のことです。

リファレンス

    • Prinsterer, “Archives”
    • Picart, “Memoires”