ヨハン=マウリッツ・ファン・ナッサウ=ジーゲン Johan Maurits van Nassau-Siegen

Escola holandesa - Retrato de Maurício de Nassau (perfil)

unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯/侯 Graaf/Vorst van Nassau-Siegen、ヨハネ騎士団ブランデンブルク・バレイ長 Herrenmeister
  • 生年: 1604/6/17 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1679/12/20 クレーフェ(独)/ジーゲン(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の五男。ヤン七世の従弟、ナッサウ伯マウリッツが名付け親になりました。(まれに旅行サイトなどで、ナッサウ伯マウリッツとナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツを混同しているものがあるのでご注意)。

1621年にオランダ・スペイン十二年休戦条約が満期を迎え、成人にはちょっと間があったものの(16歳)、すぐにオランダ軍に仕官し中隊長の地位を得ました。また、オランダに遊学(1634-1638)していた、のちのブランデンブルク大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルム一世とは、シェンケンシャンツ攻囲戦で意気投合し、生涯にわたる友情を結びます。

1636年、ヨハン=マウリッツはオランダ西インド会社から、ブラジル総督としてオランダ領ブラジルに派遣されます。ブラジルでの詳細は割愛しますが、自らの名を冠したマウリッツスタットを建設し、7年間総督を務めました。その治世は宗教的にも寛容で、貿易を奨励し、様々な公共施設を建設して植民地の発展に努めました。南米では、この時代のヨーロッパ人というと、征服者として憎悪の対象になりがちですが、搾取一辺倒ではなかったヨハン=マウリッツは、現在でも「ブラジル人」と呼ばれブラジルで人気のある人物のひとりです。逆にこの姿勢が会社の方針と合わず総督職を解かれるに至りますが、そのわずかの後に、オランダ領ブラジル植民地は現地民衆の暴動により失われてしまいます。

なお、ヨハン=マウリッツは古典や文化にも非常に造詣の深かった人物です。ブラジルには科学者や画家を同行させ、現地の植物や文化を研究させたり、絵に描かせたりしました。現在ハーグにある美術館「マウリッツハイス」は、もとはこのブラジルから持ち帰ったコレクションのために購入された邸宅です。

1644年オランダに帰国すると、早速オランイェ公フレデリク=ヘンドリクから騎兵中将の地位を与えられました。八十年戦争末期の戦いにも参加しますが、ウェストファリア条約および第一次無州総督時代後は、ブランデンブルク選帝侯の持つラインラントの複数の飛び地(クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルク等)の代官となり、ドイツのクレーフェで過ごすことになります。新婚時代のフリードリヒ=ヴィルヘルムもしばらく一緒にクレーフェに住みました。ここでもヨハン=マウリッツはブラジル同様に、為政者としての能力を発揮します。自らは改革派を奉じつつもカトリックやユダヤ教を容認し、また、建築家などを招聘して自然と建築物の融合した街づくりをおこないました。現在のベルリンの目抜き通り、ウンター・デン・リンデンは、フリードリヒ=ヴィルヘルムがクレーフェの街からヒントを得たものです。クレーフェにはほかにも彼にちなむと思われる地名や、ベルリンと共通する地名がいくつかあります。

フリードリヒ=ヴィルヘルムとの友情は、ヨハン=マウリッツ自身の権威の上昇にも作用しました。まずは1652年、ナッサウ=ジーゲン伯が侯に格上げされ、同時に、ヨハン=マウリッツはヨハネ騎士団ブランデンブルク・バレイの長に任命されます。また1657年には、ブランデンブルク選帝侯の代理として、皇帝選挙で票を投じるという栄誉にも浴しました。それとは別に、デンマークのフレゼリク三世より、デンマークの騎士団である象騎士団員にも叙されています。

オランダでは1664年、ミュンスター司教領との争いの最中に、ナッサウ=ディーツ侯ウィレム=フレデリクが事故死したため、ヨハン=マウリッツは再びオランダに戻り、最高指令職を得たうえでミュンスターとの戦いを引き継ぎました。1668年に隣国フランスの脅威が高まってくると、成人直前のオランイェ公ウィレム三世の第一摂政となり、ブランデンブルクとは対仏で協力することで合意します。その後フランスのオランダ侵攻を何とか乗り切った1675年に引退し、クレーフェに隠居して余生を過ごしました。クレーフェには生前に墓地まで建設させていましたが、遺言により、遺体はジーゲンに埋葬されています。(1668年にジーゲンにも建築家を呼び寄せ、屋敷の拡張と一族の墓地の建設をさせていました)。

理由について明記されているものは探せていませんが、ヨハン=マウリッツは生涯独身でした。一時期、未亡人のオランイェ公妃アマーリアとの仲まで疑われたほどです。(これは反オランイェ派のネガティブキャンペーンだと思われます)。人望が厚く発言力もあり、ナッサウ諸家の間や国レベルでも調停役を務めることが多かったようです。反面、異母兄ヤン八世のカトリック改宗からはじまる、ナッサウ=ジーゲン家内部のカトリック・プロテスタント分裂に関しては、徹底抗戦の態度をとっています。ナッサウ=ジーゲン侯プロテスタント分家当主は、次弟のゲオルク=フリッツ=ルートヴィヒが興していましたが、その死後に5年ほどいったんヨハン=マウリッツが務め、さらにその後は三弟の長男ヴィルヘルム=モーリッツに継承されました。

ここでは八十年戦争期間中の若年期の肖像を載せましたが、壮年期とはだいぶ面差しが違っています。

2011年、ちょうどアムステルダムの「ブラジルフェスティバル」に合わせて、アムステルダム国立博物館が特別展を開催していました。ヨハン=マウリッツがブラジルに同行した画家の絵画がメインです。
Johan Maurits en Frans Post: twee Nederlanders in Brazilië (リンク切れ)

2012年、東京都美術館・神戸市立博物館でマウリッツハイス展示が催されました。展示番号1番として、ヨハン=マウリッツの彫像も展示されていました。

リファレンス

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