ユスティヌス・ファン・ナッサウ Justinus van Nassau

Justinus van Nassau 1559-1631

Workshop of Jan Antonisz. van Ravesteyn (1609-33) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ伯 Graaf van Nassau
  • 生年: 1559/9 不明(おそらく蘭)
  • 没年/埋葬地: 1631/6/26 レイデン(蘭)/レイデン・聖パンクラス教会

生涯

オランイェ公ウィレムと、その幼馴染エヴァ・エリンク(エメリヒ市長の娘)との間の私生児。すぐにウィレムには認知されてナッサウ伯を名乗ることを許され、6歳頃からウィレムのもとで育てられました。レイデン大学で学んだ後、1582年にアンジュー公に仕え、翌年の「フランス軍の狂暴」事件の後は、オランダ歩兵大隊長となっていくつかの戦闘に参加しました。1585年にはゼーラント海軍の提督となります。スペイン・イングランドの「アルマダの海戦」では、オランダ海軍の艦2隻を率いて参戦し、港を封鎖してパルマ公の艦隊の足止めをしました。アルマダの後「ブレダの泥炭船」以降は、異母弟マウリッツのもと陸軍で戦うようになりますが、「ナッサウ提督」と呼ばれ続けています。(「ナッサウ伯」が多すぎるので区別のための呼び名かと思われます)。1590年代は、ゼーラントのミデルブルフに住んでいたことが多かったようです。

ユスティヌスには軍人としてのほかに、外交官としての顔もあります。1589年・1594年・1598年とフランスやイングランドに大使として訪問しました。1601-1625年までブレダ知事。ブレダはナッサウ家父祖の地でもあり、代々の舘もあるため、兄弟のフィリップス=ウィレム、マウリッツ、フレデリク=ヘンドリクが来たときなどはユスティヌスが彼らを歓待しました。ウィレム沈黙公の4人の息子は全員母親が違うことになりますが、ユスティヌスのみ一人だけ立場が違っているからか、兄弟のいずれとも不仲だった様子はありません。

1625年、1年の攻囲戦ののちにブレダはスペイン軍に下ることになりますが、このとき知事として、スペインの将軍スピノラに降伏したのがユスティヌスです。この場面は10年後、スペインの画家ベラスケスにより、有名な『ブレダの開城』として描かれました。(『ブレダの開城』の詳細はリンク参照)。その後は官職を失ってレイデンで暮らしました。晩年、異母弟フレデリク=ヘンドリクの秘書官コンスタンテイン・ホイヘンスとの交流があり、アムステルダムでおこなわれた彼の結婚式には、老体をおして直接参列しに赴いています。

当時の「私生児」の扱いについてはデリケートなところではありますが、官職はともかく、結婚には差別があったようです。1582-1583年頃、父ウィレムがユスティヌスの結婚を世話しようとしたことがありましたが、私生児だからという理由で断られています。結婚したのはそれから15年も後の1597年。ホラント州が資金を用立てたうえで、未亡人のアンナ・ファン・メローデと結婚しました。また、やはり出自のゆえか、複数のナッサウ伯たちが描かれている絵画にも登場せず、ナッサウ家の墓所にも葬られていません。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • ADB
  • NDB