アマーリア・ファン・ゾルムス=ブラウンフェルス Amalia van Solms-Braunfels

Amalie zu Solms-Braunfels Van Dyck 1631-32

Anthony van Dyck (1631-32) In Wikimedia Commons

  • フレデリク=ヘンドリク公妃
  • 生年: 1602/8/31 ブラウンフェルス(独)
  • 没年/埋葬地: 1675/9/8 ハーグ(蘭)/デルフト・新教会

生涯

オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの妻。祖母がウィレム一世の妹なので、フレデリク=ヘンドリクにとっては、いとこの娘(五親等)にあたります。父のヨハン=アルプレヒト一世は、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の侍従長。その関係で、フリードリヒ五世の妃エリザベス・ステュアートの女官をしていました。三十年戦争初期、1620年の「白山の戦い」で敗れたフリードリヒ五世は、流浪の末、1622年に伯父を頼ってハーグに亡命します。ここでアマーリアはまもなくフレデリク=ヘンドリクの愛人となりますが、当初より愛人の立場を嫌い、妻の座を要求していたようです。この時点では、フレデリク=ヘンドリクの側に全くその気がないのと、彼女自身の家格や持参金の問題で実現には至りませんでした。が、1625年、フレデリク=ヘンドリクの兄のマウリッツは自分の死期を悟ると、オランイェ家の血統の保護のため、戦場にいる弟を強制的に呼び戻し、アマーリアとの結婚を強要しました。1625年4月4日、ビネンホフ近郊のクローステル教会で二人は結婚式を挙げています。

結婚後、アマーリアの野心は顕著になっていきます。まずは数々の宮殿を建設し、そこで王侯貴族並の宮廷生活を営みました。ハーグ近郊のハウステンボス宮殿(長崎のテーマパーク『ハウステンボス』のモデルとなった宮殿で現女王の居館)やレイスヴェイク宮殿が有名です。また、フレデリク=ヘンドリクの母ルイーズ・ド・コリニー同様、子女と外国の君主の積極的な婚姻をすすめてもいます。長男のウィレム二世はイングランド王女メアリ・ステュアートと、長女ルイーゼ=ヘンリエッテはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムと結婚しました。あまりにその野心を公言するため、夫のフレデリク=ヘンドリクが何度も苦言を呈したほどです。

夫フレデリク=ヘンドリクが1647年、一人息子ウィレム二世が1650年に相次いで死去すると、婿のブランデンブルク選帝侯とともに、生まれたばかりの孫ウィレム三世の後見にあたりました。ウィレム三世の母メアリ・ステュアートが、清教徒革命によって亡命中のイングランド王家の兄弟(のちのチャールズ二世とジェームズ二世)との関係に奔走していたこともあり、ウィレム三世にとっては祖母アマーリアの影響のほうが大きかったといえます。この時代は「第一次無総督時代」(1650-1672)と呼ばれ、オランイェ家はスタットハウダー職から遠ざけられ、公職からも排除されていました。この時期のアマーリアの行動は、夫フレデリク=ヘンドリクが生きていた時代とは正反対で、野心を完全に潜め、ヤン・デ・ウィットを筆頭とする議会派勢力との共存を図っています。ただ一人残った直系の男子であるウィレム三世を守るためだったと推測されます。

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