エルンスト=カシミール・ファン・ナッサウ=ディーツ Ernst Casimir van Nassau-Dietz

Wybrand de Geest (attr) Ernst Kasimir von Nassau

Attributed to Wybrand de Geest (17th century) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ディーツ伯 Graaf van Nassau-Dietz (Graf von Nassau-Diez), 州総督 Stadhouder (フリースラント・フロニンゲン・ドレンテ), 共和国軍元帥(1607-) Maréchal de Camp、ラインベルク知事(1605-07) Gouverneur van Rijnberg
  • 生年: 1573/12/22 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1632/6/2 ルールモント(蘭)/レーワルデン・大教会

生涯

ヤン六世の五男。2つ下の弟ローデウェイク=ヒュンテルと一緒にジーゲン、ハーボルン、バーゼル、ジュネーヴで学んだ後、長兄ウィレム=ローデウェイクのいるレーワルデンに移り住みます。持って生まれた素質も学習意欲も高く、1590年代は、従兄でオランダ軍司令官のナッサウ伯マウリッツに早くから見込まれて直接理論と実践を叩きこまれ、その弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクの家庭教師も務めました。軍務に就いたのはローデウェイク=ヒュンテルより一足早く、1592年から1594年のマウリッツの一連の遠征にも参加しています。1595年、兄フィリップス、従兄ゾルムス伯エルンストとともにラインベルクで捕虜となりますが、2人が戦死したため、エルンスト=カシミールだけが賠償金と引き換えに保釈されました。その後ゾルムス中隊を継承し、翌年のフルスト攻囲戦に参加します。

1597年のマウリッツの東部遠征に同行したのち、1599年に歩兵大隊長としてザルトボメル攻囲戦を単独指揮しました。1600年のニーウポールトの戦い以降、マウリッツに次ぐ副指令の地位を与えられています。正式に元帥としてのタイトルを得たのは、ブラウンシュヴァイク公家との婚約直前の1607年1月です(ブラウンシュヴァイクの将軍と二重のタイトルとなります)。1601年以降のオーステンデ攻囲戦にも、ナッサウ家の将軍クラスの中ではおそらく唯一参加しています。というのも一族の中でもとくに好戦的な人物で、戦争を「趣味」と言い切り、激戦地や最前線を好む傾向があったようです。とはいえ、マウリッツの一番弟子らしく慎重で計算高い司令官であり、その点では英軍司令官のフランシス・ヴィアーとも良く似ています。

1606-07年、ブラウンシュヴァィク公の副官(事実上の最高指令職)としてドイツへ招かれ、そこで公女ゾフィー=ヘートヴィヒを紹介されます。1607年3月、亡き父の所領のうち、ナッサウ=ディーツを相続すると、6月には公女と結婚。ゾフィー=ヘートヴィヒの母親がデンマーク王女(クリスチャン四世の姉)だったため、この結婚によってオランダとデンマーク間のつながりも深まりました。式にはデンマーク国王クリスチャン四世も参列しています。夫妻は所領のディーツに住むことはなく、兄フィリップス、弟ローデウェイク=ヒュンテルの眠るアルンヘムに居を構えました。この時、故ローデウェイク=ヒュンテル夫妻の屋敷を買い取っています。ハーグにも屋敷があり、後に従妹エミリア夫婦とホーエンローエ伯夫婦の住居も買い取りました。フリースラント州総督になって以降はレーワルデンにも住み、フラネケル大学で子女に教育を施しました。

北部のレーワルデンやフロニンゲンに居ることの多い長兄ウィレム=ローデウェイク、基本的にドイツのディレンブルクまたはジーゲンを拠点とする次兄のヤン七世に、頻繁に報告書のような詳細な手紙を送って、ハーグや戦地での出来事を伝えていたのはエルンスト=カシミールです。兄たちと甥たちのちょうど中間の世代なので、オランダに軍事経験を積みにやってくる甥たちの面倒も見ていました。(長兄ウィレム=ローデウェイクや次兄ヤン七世が厳しく育てるのに反し、エルンスト=カシミールは明らかに褒めて伸ばすタイプです)。そういった立場からか、人一倍一族の団結や繁栄に気を配っていました。一本筋の通った人柄で、モットーは「不変」。妻のゾフィー=ヘートヴィヒも同様に「(信条を)変えるくらいなら死ぬ」とのモットーを用いたとか。

休戦期のエルンスト=カシミールの行動について書かれている資料は多くありません。マウリッツが表立ってできないような、諜報などの裏の仕事を担っていたともいわれています。マウリッツのクーデターの時期には、もちろん実働部隊としても働いていますが、北部の長兄ウィレム=ローデウェイクとの連絡・調整役も務めていたようです。ただ、宗教的な見地としては彼自身は中庸を由としたため、長兄の過激な思想には反対しており、最終的にマウリッツが厳格派を選択したときにも遺憾の意を示したそうです。

マウリッツが州総督を務める州のうち、ヘルデルラント(1607-1625)、ユトレヒト(1610-1625)では副州総督を任されています。アルンヘムに居館があったのはそのためもあるかと思われます。ウィレム=ローデウェイクの死後にフリースラント州総督、マウリッツの死後にフロニンゲン・ドレンテの州総督を兼ねました。逆にマウリッツの死とともに、副州総督は返上しているようです。州総督として国境防備に務め、ティリー伯や若年期のモンテクッコリ伯を撃退もしています。

マウリッツの死後は、マウリッツに対すると同様に、かつての教え子でもあるフレデリク=ヘンドリクに忠実に仕えました。1627年のフロール、1629年のスヘルトヘンボスなど、フレデリク=ヘンドリクが名を上げることになる初期の攻囲戦では、副官として従弟を補佐しています。1632年のマース川遠征・ルールモントの攻囲戦で、息子のヘンドリク=カシミールと偵察に出た折、一発の銃弾によって頭を打ちぬかれて命を落としました。その時着用していたといわれる着衣と帽子が今でも残されています。

日本語ではニーウポールトの戦いで若干取り上げられているに過ぎません。そのため、先遣隊を壊滅させた人物程度の認識しか持たれていませんが、ヴィアー兄弟同様、マウリッツ期からフレデリク=ヘンドリク期をつなぐ要として、黎明期オランダ共和国軍における最重要人物だったといっても過言ではありません。

次男ウィレム=フレデリクが、フレデリク=ヘンドリクの娘アルベルティーネ=アグネスと親族同士で結婚しましたが、それはずっと後のことです。彼らの子孫が現在のオランダ王室の直系の祖先となります。

耳に弾丸サイズの穴が空いている、とか、「くじら隊長」とか、ちょっとした小ネタの持ち主でもあります。くじら隊長についてはリンク先をどうぞ。また、1597年ルイーズ・ド・コリニーがフランスに赴いた際に護衛として随行したようですが、戦争をしたくて自分だけすぐに戻ってきています。

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